「ウィニエルー!!」 家から出て、十五分程走って森を抜けると小高い丘へと出る。 緑の絨毯の丘の頂上に臙脂色の屋根の、所々穴の空いた白く塗られた木の壁、木造の小さな家が目に入った。 俺が来た方は裏手だったのか、玄関は見当たらず、日の光は表を照らしている為に、裏手側に生えた緑は光が当たっている部分より濃い色をしている。 ここからあいつの姿は確認できなかった。 表側に居るんだろうか? 昼間は山賊が出ないと言ってたとはいえ、中に居ないとも限らない。 なら気付かれないようにしなければ。 そう思って、 俺は静かに廃屋へと近づいて、ペンキの剥がれが酷い、汚れたガラス窓の一部を指で擦って覗いた。 「……ゴミだらけじゃねぇか」 中には草臥れた二人掛けのソファが一つあるだけで、他に家具らしい家具はなく、一部屋続きで、二階も梯子で繋がっており、誰か居たら一目でわかるような間取りだった。 今は誰も居ないようだ。 変わりに無数の酒ビンと何やら食い散らかした食物の残骸があちこちに散らばっている。 中に入ろうものなら異臭がしそうだ。 こんな場所にあいつが入ることはないな。 山賊が居ないことを確認した俺は、廃屋の表へと回ることにした。 「ウィニエル」 俺の声は小さかった。 あいつは廃屋の玄関側から少し下った、一面白詰草の群生で埋め尽くされた中に立っていた。 まだ春半ばだからか殆どが緑で、白色の球状の花は少ないが、あいつの足元近くにいくつか咲いている。 その白と緑のコントラストがこれからやってくる初夏を匂わせた。 あいつは俺に背を向け、温かい陽射しに向かって空を仰ぐように、手にその花を数本持って、髪を風に靡かせている。 俺の声に気付く様子は見受けられない。 俺はその姿、眼差しが、天界を乞いているように見えて、どこか淋しそうだと感じた。 そして、あいつに近づきながら、ふと、夢のことを思い出す。 夢の中のあいつは、俺じゃなく天界を選んだ。 現実のあいつは、俺を選び翼を置いてきた。 ……後悔はしてないのか? どこにでも行っちまえなんて、売り言葉に買い言葉でつい言ってしまったけど、まさか、今更天界に帰るなんて言わないよな? 「あ、グリフィン。どうしてここが?」 ウィニエルは俺が近づく気配を感じたのか、声を掛けようとした俺に振り向いた。 しかも、何故か機嫌が直ってい、る……? 「……良かった。無事で」 俺はあいつの肩を掴んで、静かに地面に座らせ、俺も一緒に腰を下ろす。 白と緑の絨毯は柔らかく温かかった。 「何かあったんですか?」 向かい合った俺にあいつは花を手に持ったまま首を傾げる。 「……夕方、ここに山賊が出るって噂聞いたか?」 「山賊? いいえ? そうなんですか。それじゃあ、何とかしないとですね」 あいつは変なことを言う。 天使でもないのにまだ、人助けをするつもりか? 「……グリフィン、どうしましょう?」 あいつは俺を覗き込むように訊ねてきた。 「何で俺に聞くんだよ」 「だって……」 あいつが俺を頼りにしてくれてることはわかっている。 けど、俺が怪我するから以前のように簡単に悪党退治を頼むことはない。 「お前、俺が怪我するの嫌なんだろ?」 「嫌ですけど、どなたか困ってらっしゃるんでしょ?」 自分がそれを解決することが当たり前だ、と言わんばかりの口調で、あいつは言葉を返してくる。 「俺に怪我しろって?」 「……そんなこと言ってないじゃないですか。あなたなら怪我しなくても、山賊の一人や二人」 「五人だってよ」 「……で、でも困ってる人が可哀想ですし……グリフィンなら……」 あいつの中で山賊の問題は自分の使命に移行したらしい。 人間になっても、やっぱりあいつは天使のまんまだ。 俺は別にどっちでも良かった。 あいつが望むなら解決してやるさ。 ちょっと怪我したって死にゃあしねぇ。 ただ、もう天使でもないのにでしゃばることはないんじゃないか? 気を揉み過ぎなんじゃないのか? やっと、人間になれたってのに、 これじゃあ、あいつは人間になりきれねぇじゃねぇか。 それとも、まだ天界へ未練があるのか。 「俺なら解決できるが、怪我しても泣くなよ? お前いっつも泣くから」 俺はあいつの髪を掬ってそれに口付け、ウィニエルの様子を窺う。 「そ、それは……わかりません」 あいつは首を横に振るう。 「何でだよ」 「……だって、涙は勝手に出ちゃうんだもの……」 あいつは申し訳なさそうにしたかと思うと、 「でも、怪我には気を付けて下さいね」 今度は笑顔で悠長に告げた。 「あのなぁ。五人だぜ? さすがの俺でも無傷で帰れるかよ」 「でも、怪我したら嫌です」 「……とりあえず、死ぬこたぁねぇから、安心しとけ」 俺はあいつを安心させたくてそう言ってやったんだけど、 「でも、怪我は嫌。私、もう天使じゃないから助けてあげられませんし」 「んあ?」 「……私が天使だったら、怪我しても直ぐ治すことが出来るのに……今の私じゃ一緒に戦うことも出来ない……」 ウィニエルは歯痒そうに口を窄めた。 どうやら俺の想いはあいつには伝わらなかったらしい。 「……お前、天使のままが良かったって思ってるのか?」 「え?」 何で、そんな言葉が出たのかはわからない。 夢の話から生まれた疑問を何故、今俺はあいつに訊ねようとしているんだよ。 そうは思ってるのに、俺の口は止まらなかった。 「未練があるのか?」 「グリフィン? 一体何のはな……」 あいつが俺の目を見て、息を呑む。 俺の口よ、喉よ。 もうやめてくれ。 俺は、ウィニエルを泣かしたくない。 そう思ってるのに、尚も口が勝手に御託を並べやがる。 「あの時、お前は何で俺を選んだ? 天界へ翼も、能力もみんな置いて来たんだろ? 本当は後悔してんじゃないのか」 「何……それ……、どういうことですか?」 俺の言葉にあいつの眉が少し強張る。 「天界に帰りたいなら帰ればいいだろ!! 天使でいたいなら地上に残んなくたって良かったんだ!」 「グリフィンっ!!」 俺の言葉の終わりとあいつの俺を呼ぶ声が重なって、 その後、俺の左頬に針に刺されたような痛みが走った。 耳には何かが破裂した音が残り、痛みが通った方向へ目を向けるとあいつの手が宙に留まっていた。 地面にはあいつが持っていた花が散らばっている。 ……決定打を打ってしまった。 「…………」 俺はそれ以上何も口に出来なくなってしまった。 「っ……」 あいつも右手を下ろし、左手でそれを包むようにすると、それきり黙り込んでしまう。 お互いその場に向かいあったまま俯いていた。 時間にしたらそう大したことはない。 だが、こんなに重い沈黙は初めてだった。 今、途方もなく長い時が流れている。 この沈黙は、いつ終わるんだ? 今日は晴れてるし、ここは花畑みたいに穏やかで風も和やかなのに、俺とあいつの険悪さと言ったら。 丘の下を臨めば街を一望出来るし、恋人同士で訪れるのに廃屋の中はともかく、ロケーションは完璧じゃないか。 なのに、俺達のこの空気はなんだ。 俺はこんな沈黙を長く続けるわけにはいかないと思い、あいつに呼びかけてみる。 「……う、ウィニ……」 その呼びかけに、 「……天界に帰れ? 地上に残らなくたって良かった? そうですね……天界に帰ってたら別の世界に派遣されて、別の勇者と出会って、新しい恋をしてたかもしれませんね」 俺の言葉を覆うように、同じタイミングで今度はあいつが口を開いた。 言い終えると、あいつは立ち上がって走り出す。 「待てよ、ウィニエル!!」 俺は直ぐに追いかけ、離れていくあいつの右手首を引いて、引き止めた。 「や……放して下さい!」 あいつは抵抗して俺の手を振り切るように手首を激しく上下に動かす。顔は地面を向いてしまっていて、表情を窺い知ることは出来なかった。 「いやだ!」 俺は抵抗するあいつの腕の自由を奪うように、握る手により一層の力を込めた。 「痛っ……痛いから放して下さい!」 「いやだ。放したらお前、逃げるだろ!?」 掴まれた腕が痛いのかウィニエルの手首に、俺の指が食い込んでいく。 俺は放せなかった。 この手を放したら、きっと、ウィニエルは……。 「……逃げないから、放して下さい。本当に……痛い……」 あいつは俯き、涙交じりの声で首を横に振りながら、観念したのかそれまでの抵抗をやめた。 「……本当だな?」 俺がそう言うと、あいつは何も言わなかったが、俯いたままの状態で首を何度か縦に振って頷いた。 それを見届けた俺はあいつを開放してやる。 そうすると、あいつは言った通りに歩みを止め、その場に留まった。
to be continued…