「……私、あなたの気持ちがわかりません」 俺から開放された手首は鬱血し始めか、赤くくっきりと指の痕が残っていた。 相当痛かったに違いない。 あいつは左手でその部分を擦りながら呟いた。 「は? 俺の気持ち?」 「……私は、天界に還った方がいいんですか?」 ウィニエルは顔を上げないまま口元に両手を当て、言葉を濁すようにそう告げる。 「誰もそんなこと言ってねぇだろ?」 俺は直ぐに反論した。 「だって、嘘吐きは嫌いだって。どこにでも行けって言ったじゃないですか。地上に残らなくたって良かったとも」 あいつも直ぐに返してくる。 まるで朝の言い合いと同じじゃないか。 このままじゃ、また口喧嘩になってしまう。 なんとかしないと。 「だからそれは、たまたま出ただけの言葉で、だな……」 俺は朝とは逆に、熱くならず冷静に返してみた。 「だからって、そんなこと言いますか? いくら怒っていても、少しも思ってもない言葉を咄嗟に出したりなんかしませんよ?」 あいつは口元に当てていた両手を下ろして、いつもと同じように冷静に返してくる。 この状況においてなんで、こんなに冷静で居られるのかわからない。 そして、 やっぱり俺はそれに腹が立ってしまう。 「何だよ、その言い草は!」 ついには、怒鳴ってしまった。 「グリフィンが変なこというからでしょう!?」 あいつは下を向いたまま、怒鳴り声だけあげた。 あれ? 「変って何だよ!? 俺はただ、お前が地上に残って後悔してないかと思ったから!」 「どうして後悔してると思うんですか!?」 俺が返すと、あいつはやっぱり顔を上げないまま大声を張り上げた。 俺は顔を上げないのを不自然に思い、あいつの顔を覗こうとした。 だが、あいつの表情はやはり見えなくて、わかったのは両太腿の脇に沿った両手の握り拳だけだった。 その拳が小さく震えている。 「空、見てたじゃねぇか!! 空見て、天界に戻りたそうな顔してただろ!」 俺は俯くあいつの頭に向かって怒鳴りつける。 「誰も、そんな顔してません! あなたの勘違いでしょう!?」 あいつは拳を震わしながら首を激しく横に振るった。 それでも顔は上げちゃくれなかった。 「なら、顔上げろよ! いつまでそうしてんだよ!? 俺の方見ろよ!」 「やっ……!」 俺はあいつの右肩を掴んで、俯いた顔を上げさせるために顎を左手で掴み、力を込めて強引に押し上げた。 どうせ、泣いてるんだ。 そんなのわかってる。 ウィニエルは泣き虫だから。 「……泣き虫」 あいつと俺の目が久しぶりに合った。 でも、 あいつは直ぐ、目を閉じた。 頬が涙で濡れて、閉じた目蓋からはまだ、涙が溢れている。 涙を止めようと閉じたが、閉じたところで涙が止まるわけがない。 「っ、な、泣いてなんか、いな……」 あいつは目を閉じたまま口を開く。 「これ、涙だろ?」 「ち、違う……! 涙なんかじゃ……違うもの! 泣いてなんかいないもの!」 俺が問うと、あいつは薄っすらと目を開けて、口を大きく開けて告げた。 開いた口に唾液が濃くなったのか、透明な糸が見える。 その光景はまるで、子供が親に必死に言い訳してるようだった。 ウィニエルのそんな顔を、俺は今まで見たことが無かった。 こんな風に取り乱すこともあるのかと、新しいあいつをまた一つ発見した気がして、俺の胸は急に締め付けられた。 「……泣いてる」 俺はあいつの顎から手を放して、その手を肩へと添えた。 多分、もう、俯いたりはしないだろう。 「……っく……」 あいつは、 ひくひくと鼻を啜る。 「……ほら」 俺はいつもあいつが俺に持たせているハンカチを腰の道具入れから取り出した。 それであいつの鼻を摘む。 「ううっ……」 ちーんっと、あいつは勢いよく鼻をかんだ。 それを俺は丸める。 その姿が可愛いな、なんて俺は思っていたが、 「ハンカチ……汚しちゃった……っ……」 ウィニエル的には許せなかったのか、丸めたハンカチを俺から取って見つめると、再び涙を溢した。 今は、「ハンカチなんか洗えばいいだろ?」とか、「泣くな」と言っても泣き止みそうにない。 泣かしたのは俺だから、付き合うしかないか。 「……やっと、顔見れたな」 俺はあいつの濡れた頬を両手で包んで、無理矢理笑顔を作って覗き込んだ。 「……ぐりふぃ……ひっく……」 あいつは俺の笑顔にほっとしたのか、また涙を溢す。 その涙はあいつの頬を伝って俺の手を濡らした。 熱い涙だった。 「……俺、夢を見たんだ」 「ゆ、夢……?」 俺の話に耳を傾けた後あいつは鼻水が溜まって声が詰まるのか、ちーんと、再び俺のハンカチで鼻をかんだ。 それでも俺に頬を包まれて遠慮しているのか、上手くかめずにあとは鼻を啜って口で呼吸をする。 「……お前、俺が嘘吐きだって言ったろ?」 「は、ひ……」 俺の言葉にあいつは素直に返事をした。 ウィニエルの声は嗄れて、上手く発声出来ていない。 今はうまく喋れないから、言い返されることも無いだろう。 それにもう、言い返そうとは思っていないかも。 そう考えたら、いつの間にか俺の苛立ちも消え、冷静に喋れるようになっていた。 「お前には“別に?”って言ったけど、本当は堕天使の奴を倒したすぐ後の夢でさ……」 「……はひ……」 俺が静かに話し出すと、あいつは一度だけ頷いた。 「俺はお前に地上に残って欲しいって言っただろ? で、お前は俺の傍に居てくれるって約束した。約束通りお前は地上に残ってくれた」 「……はぃ」 俺の話にウィニエルは小さく返事をする。 「……夢の中のお前はさ、天界に還るって言うんだ。俺と約束してたことも忘れてよ。いや、約束を忘れたわけじゃないけど、多分、自分の役目を捨てられなかったんだと思う」 「ど、どうし…そ、……夢を?」 ウィニエルは続く俺の話に、今度は眉を曇らせた。 どうしてそんな夢を? って訊いたんだよな。 「わかんねぇ……ただ、その夢を見てよ、お前は後悔してないのかと思って」 「……ど…し、て……? どうして…そう……うの?」 どうしてそう思うの? って? 「……俺はお前を地上に留めたことを後悔してねぇ。お前が傍に居てくれるだけで俺はいいんだから。けど、お前は天界に全部置いて来たんだろ? 翼も、力も、家族も、友達も。もう二度と会えないんだろ? 後悔してないのか?」 「…………」 俺が言い終えると、あいつは黙り込んでしまった。 今沈黙されるのは肯定されてるようでちょっと痛い。 「い、今更後悔してるって言っても、お前を天界に還す気はないからな!」 慌てて言葉を追加した。 「……、……私の居場所はグリフィン、あなたです」 しばらくの沈黙の後、あいつはそう告げた。 「ウィニエル……」 俺はこの言葉を待っていたのかもしれない。 さっきの沈黙であいつの咽が潤ったのか、声がやや涙混じりだが、ほぼいつも通りに戻っていた。 「それに……」 「え……それに? な、何だ?」 あいつの言葉が続いたから、俺は慌てた。 何を言うつもりなんだろうか。 「……あなたに捨てられたら、私どこにも行けなくなってしまいます」 「捨てるわけねぇよ」 なんだ、そんなことだったか。 と思ってたら、 「一度人間になった天使はもう、天界には還れないんです。それが天界の掟」 と続いた。 「ん? ……じゃあ、還りたくても還れないってことか?」 それならやっぱり後悔してるんじゃないか。 後悔したって、還してやらねぇぜ? 「……いいえ。私は天界に還りたいなんて思っていませんよ。一度も思ったことがありません」 ん? やっぱり後悔はしてないのか? 一体どっちなんだ。 「だってお前、天使の力があればとか何とかって言ってたじゃねぇか」 「それは……あなたが怪我したのを早く治してあげたいからで、天界に還るために言ったわけじゃないですよ?」 ん? ってことは、全部俺の為? 「……そっか、そうなんだ」 あいつの想いが天界じゃなく、俺にあることがわかって、俺は心底ほっとした。 だとしたら、俺はあいつに相当酷いことを言っていたことになる。 納得した俺に、あいつは更に続けた。 「……天使でなくなった今、あなたが大怪我をしても、何もしてあげられないですし、翼があれば離れていても直ぐにあなたの元に飛んでいけるのに。人間の私はまるで役立たずで何だか悔しくて。気が付いたら涙が溢れてしまってるんです……。それをあなたは辛そうに見ているから、あなたの辛そうな顔を見ていると苦しくてまた涙が溢れて……」 あいつの瞳からまた涙が零れていった。 止め処なく、熱い雫は頬を伝って滴り落ちていく。 「……そんな風に思ってたなんて俺、知らなかった……」 俺はあいつの頬を包んでいた両手を今度は肩に乗せた。 少し、複雑だった。 あの涙は俺を心配しての涙じゃなくて、悔し涙だったなんてよ。 だが同時、少し肩の荷が降りた気もする。 俺にはよくわからないが、これはあいつの性格の問題だ。 ウィニエルの性格を考えれば、かつて出来たことが今出来ず、もどかしくて歯痒くて、悔しいんだろう。 変な所が頑固だから余計凝り固まってるような気もする。 「ごめんなさい……あなたを困らせたいわけでも、泣きたいわけでもないのに……いっつも、心配させてしまって」 ウィニエルの眉尻が下がった。 「いや……俺はてっきり、俺の身体のことを心配して泣いてるのだとばかり」 何だか自惚れもいいところだよな、俺。 「? 勿論それも入ってますよ?」 「え?」 「だって私、あなたが居ないと生きていけないもの。だからいつも元気で居て欲しいんです。怪我なんてして欲しくない」 あいつは俺の目を真っ直ぐに見つめて告げた。 ウィニエルの言葉は、俺に死ぬなと言ってるように聞こえた。 もう自分は天使じゃないから、助けることは出来ない。 重症になんてそうなることはないが、俺の仕事上、先のことなんてわからない。 なら、怪我をしないように気を付けて欲しい、と。 そして、ウィニエルは俺がもし死んだら、 も、もしだぜ? もしかしたら……。 「……安心しろ。俺はお前を残して死んだりしねぇ」 「……グリフィン……」 俺がそう言ってやると、あいつはやっと微笑んでくれた。 天使が自害するなんて話、聞いたことねぇ。 確かそれって、大罪なんだろ? まぁ、元天使だから大罪にはならねぇかもしんねぇけど。 俺はずっと、 俺ばっかりがあいつを想ってると思ってたけど、 俺って、実はすげぇ愛されてるんだな……。 「……何、笑ってるんですか?」 ウィニエルは不思議そうに小首を傾げて俺を見る。 「え? あ、いや……」 どうやら俺はにやついていたらしく、あいつに指摘され瞬時に愛想笑いに切り替えた。 お前の愛を感じてたんだ……。 なんて、恥ずかし過ぎて、口が裂けても言えねぇ!! ……臭いしな。 「……ちょっと、しょっぱいかもしれませんけど」 「ん?」 あいつは俺の首に手を回して、背伸びをした。 「ん」 ウィニエルの唇が俺の唇に重なる。 涙が少し混ざっているのか、あいつの言った通り、確かに少し塩辛い。
to be continued…