前書き
本編第九話頃のお話。地上に降りたウィニエルを思い出しての、ミカエル様の独白。
――あれから、どれくらい経ったんだろうか。 日の光が注ぐ明るい部屋にはもう、主は居ない。 ここは且つて、蜂蜜の美しい長い髪と宝石のエメラルドの瞳を持った天使の住んでいた部屋。 主の居ないその部屋に、俺は一人で分厚い日誌を片手に訪れていた。 部屋にあった机を前に椅子に腰掛け、そこから窓に目をやり外を望めば、天使の羽と同じ純白の雲が穏やかに漂っている。 俺はそれをしばらく見過ごしてから、机の上に日誌を広げ、今日の出来事を綴ろうとしていた。 今日書くべきページを開いて、机の上に残った筆記具に目を向ける。 「……何を書こうか」 この部屋のかつての主が置いていった羽ペンを手に取り、同じく置いていかれたインク壷の蓋を開けて、ペン先を中のインクに浸けた。 「………………」 ペンをインク壷から上げて止めると、黒いインクが二、三滴滴り落ちて、インク壷へと戻っていく。 僅かな滲みの波紋と共に戻っていく。 更に一滴、二滴とインク壷の上に固定されたペン先からインクが戻っていく。 一適、二滴。 また、 一滴、二滴。 インク壷の中の黒インクに、鈍い虹色の波紋が次から次へ、緩やかに広がり踊る。 これではペン先が乾いてしまって文字が書けそうにない。 「……何をやっているんだ。最後だろう?」 自問して、俺はまた、インク壷へとペン先を浸けた。 そして、先程と同じようにペンを上げ、止める。 一滴、二滴。 日誌に垂れない程度でいい。 「…………」 だが、俺の手はそれ以上動くことがなかった。 俺はまた、 インクが全て滴り落ちるのを眺めている。 書きたくないのか、俺は。 ――インクが戻っていく。 それを見ていると、俺の記憶も戻って来そうだ。 「……時間はまだある」 俺はインクを纏ったが、使われることなく乾き始めたペンを机の上に置いて、インク壷の蓋を閉じる。 「…………今更、何を思い出している?」 机の上に両肘を付き、指同士を絡め合わせ、下方を向いた額に当てると「はぁ」と小さいため息が漏れた。 大したことじゃない、 大したことじゃない。 思い出したところで何とも思わないはずだ。 そう、自分に言い聞かせる。 出会ったのは。 ここから、どれくらい離れた場所だったろうか。 今から、どれだけ前のことだったんだろうか。 そんなに経ってはいないはずだ。 「……あれは、いつのことだったか…………」 俺は先程と同じ様子で静かに目を閉じた。 目を閉じたら、その出会いがつい昨日のことだったように思い出せるのだから――。 ◇ ――それは、ウィニエルがまだ五歳の頃。 『あーん、あーん』 どこかで、甲高い子供の泣き声がした。 天界は静かな世界だ。 子供達は一括して保育施設で大人の天使達に育てられ、管理される。 生まれてすぐはうるさい赤子の天使も、二年もすれば大人しくなる。 皆一様に同じ顔で穏やかに微笑む。 それをもう、ずっと永い間繰り返して、天界は天使達を見送ってきた。 中には手に負えない天使もいたが、天使を育てるのは俺の役目じゃない。 いや、 正確には、保育施設の管理は俺の仕事の一つなのだが、実際に面倒を見るのは俺の部下達だ。 俺の仕事は時々施設を訪れて、薄ら気味の悪い笑顔の子供達の様子を窓越しに眺めて帰るだけ。 管理が上手くいかない高い能力を持った天使達は別室に分けられ、徹底して封印を施される。 俺はそれを傍観するだけ。 俺が直接面倒を見ることは滅多にない。 昔程、何かを育てることに興味もなかった。 天界の厳しさを不愉快だ、などと思ったことはない。 自分の仕事に不満もない。 手を抜こうなどとも思っていない。 堕天使達に天界を奪わせる気も更々ない。 俺は俺で、永い間天界に尽くしてきたし、これからも天界で生きていくだろう。 ただ、永すぎたのかもしれない。 同じことの繰り返しに、いつしか感情の一部が麻痺していることに気が付いてしまった。 同じ顔の天使達は天界には必要なのだが、俺個人は何か物足りなさを感じている。 何が物足りないのかはわからないが。 ◇ 「………………」 俺は保育施設を訪れていた。 公式訪問じゃないから、子供達は今授業中だろう。 いつものように窓越しに、席に整列して座る子供達を眺めながら通り過ぎる。大半の子供達は管理しやすく、大人しい。俺がこうしてこっそり来ても振り向きもしない。 それが、天界での普通。 普通の子達の部屋を通り過ぎると、奥には管理の上手くいかない天使達の部屋がある。 その前を通るのは、あまり好きじゃなかった。 表面上、授業となっているが、時々大人達は子供達に封印を施している。 封印を施された子供は苦しみもがき、時に失神し、医務室へ運ばれる。 それで、子供が大人しくなれば普通の子供達と同じ部屋へと入れられる。 それでも、封印が効かない場合は日を改めて、また封印を施す。 段階的に、術を強めながら。 たまに、命を落とす子供もいたな。 酷だが立場上、俺には止めることは出来ない。 今日も、“あれ”をしているのだろうか。 俺は“あれ”を見るのがあまり好きじゃない。 「あーん! ロジーがぶったー!!」 俺がその部屋の扉の前を通りかかると、女の子が飛び出してきた。 金の柔らかい巻き毛を二つに結んだ五つぐらいの少女だ。背にはまだ綺麗に生え揃わない、小さな翼が生えている。 その子は翠玉の瞳に涙を湛え、大声を上げていた。 「…………ウィニエル、また泣いているのか」 「うえぇえええええっ!!」 小さな少女ウィニエルは俺の足元に縋り付く。 俺はこの子を知っている。生まれた時に立ち会った。 そして、窓越しに何度が見ていたこともある。 だがこうして面と向かったのは初めてだ。これが初めての出会いと言うならそうと言えるのかもしれない。 「おい?」 「………ひっく、ミカエル様は、私の羽、嫌い?」 俺の脛辺りに腕を回して、纏わり付きながら、彼女は涙目で俺を見上げた。 ウィニエルの小さな翼は真っ白ではなかった。 ただでさえ五歳にもなれば、もう生え揃っていてもいい翼が生え揃ってもおらず、羽の色も一部が黄みがかっている。 そのことを同じ部屋の子、ロディエルにからかわれ、時々泣かされているのだ。 だが、それは黄色というより、黄金に近い。 彼女の母親も小さい頃は同じような色の羽根が生えていた。 大人になるにつれ、それは抜け落ち、美しい純白となった。 何度も封印を施され、全てを白で覆うようにして、だ。 それでも、結果的にはウィニエルの母親は封印を解いたんだが。 そして、人間になると決め、地上へ降りるその時まで、その翼は美しく輝いていた。 「……その内白くなるさ」 俺は彼女の母親を思い出しながらウィニエルの脇を抱え、抱き上げた。 まだ小さいその子は軽々と抱き上げられ、泣き腫らした目で俺を見る。 「…………本当?」 ウィニエルの瞳はまるで宝石のようで、俺はこの目を気に入っていた。 その瞳が、母親によく似ている。泣き虫な所は父親にそっくりだ。 俺は、彼女の母親を気に入っていた。 そして、父親も。 二人とも封印が効かなくなり昇級を提案したが、天使の位を取ることを拒み、地上に降りた。 条件を付けて、降ろしてやったんだ。 子を作ることを条件に、二人が地上に降りることを許した。 愛し合っても居ない二人が子を作るのは天界ではよくあることだ。 必要な時、 必要なだけ、 管理できる分、子を作る。 但し、全てが天界の思い通りに行くわけではない。 生命の誕生は天使の領分ではないから、管理しきれない分を考慮し、若干余裕を持って子を作らせる。 人間よりも永い時間を生きる分、子を宿せる期間の長短はあれど、作り方も育て方も人間達と然程変わりはない。 そこに両親の愛情が伴わないだけで。 生まれた子は皆に愛される。 生まれた子は皆を愛する。 皆が平等に愛され、愛する。 それが、天界。 だが、ウィニエルは両親に愛されていた。 両親同士は愛し合っていなかったが、ウィニエルに対しては二人とも深い愛情を示していた。 そして、ウィニエルと同じように生まれたのがロディエルとラミエル。この三人の両親は共に地上に降りた天使が生みの親だ。 この三人は同じ部屋で過ごしている。 封印を施しても、中々効き目が現れない。 ウィニエルの両親は真面目な天使同士。 ロディエルの両親は共に位の高い天使だったが、父親は堕天使となった。 ラミエルの両親は兄妹で、普通の天使だったが、共に同じ世界に降りた。 三組共が互い、近い時期に地上に降りることを選択したために、天界は厄介な子供達を同時期、孕むことになった。 封印を跳ね除ける力を持つ子は後の大天使となる素質を持っている。 だが、それはギャンブルに近い。 特殊な子が生まれても大半が封印に負けるか、地上に降りるか、堕天使となるか。 それでも、未来の大天使となる者はその素質を持った者でなくてはならない。 ただの天使では、厳しい規律に縛られた天界のバランスを保てないのだ。 それを作らせなければならないのも俺の務め。
to be continued…