「…………様、天使様」 その陽だまりのような、明るく優しくて落ち着いた可愛い声。 「う……ん…………」 聞き覚えのあるような声に私は記憶を辿る。 ――その声、もう一度聞かせて。 そうしたら、起きれるから。 そうしたら、思い出せるから。 「天使様」 私を呼ぶ声。 この声やっぱり知ってる。 「……う……ん……あなた、は…………」 私がベッドの上で目をゆっくりと開くと、目の前に安堵したように微笑む女性がこちらを覗き込んでいた。 「良かった、気が付かれて」 目元、口元に少し皺があり、年月が経ったのだと思わせるその姿。 それでも笑顔や声はあの頃と変わらない。 「……まさか…… ティア…………?」 「はい。お久しぶりです、天使様」 ――ティア。 インフォスの勇者の一人。 共に戦った戦友。 そして、グリフィンの妹。 「天使様が倒れられてると聞いて、こちらに運ばせました。天使様をお医者様に診せるのもどうかと思って………… 一先ず様子を見ていたのですが…………」 ティアが私の身体を起こしながら告げた。 周りを見回すと宿のような一室。六畳あるか無いか、木目がばらばらの床板と壁の部屋には旅人が泊まるのに必要最小限なベッドと、部屋の色と合わせた腰くらいまでの高さの棚。 その上に小さな鏡。同じ色の椅子が一つ。ティアが座っている。 そして、私の寝ていたベッドの左隣とその向かいに大きな窓。 窓の外は森のようで、木々が時折吹く風に枝先を揺らす。 ドアは私の足元右斜めに有り、木を合わせて造られていて古いのか、何箇所か小さな穴が空いていた。 「ごめんなさい……私なら大丈夫です。もう、何ともないみたい……」 私が翼を二、三度羽ばたかせてみると、翼は元気よく動く。 少し休んで治ったようだった。 「そうですか、それは良かったです。…………」 ティアはそれ以後黙り込んで、俯いてしまった。 「……お久しぶりですね、ティア。お元気でしたか?」 ティアが黙り込んでいる理由が何となくわかった気がして、私は話題を振ってみた。 「……はい…………」 「……そう、……それは良かった」 ティアは短く答えてくれたけれど、それ以上会話の広がりはなかった。 その代わりに彼女から逆に問い掛けられる。 「……天使様は一体どうされたんですか…………?」 「え……?」 「……ほら、急にインフォスに来られたから……まさかまた堕天使が!?」 ティアはインフォスがまた堕天使に狙われているとでも思ったのか、急に声を荒げた。 「いいえ! インフォスは平和ですよ! グリフィンのお陰で!」 私は、ティアを安心させるために咄嗟に大きな声で言ってしまったのだけど。 「……お兄ちゃん……」 ティアは小さくそう告げると、また俯いてしまった。 ティアは私とグリフィンのことを知っている。 私がここに残らなかったことを怒っているかもしれない。 そして、私が去った後の彼のこともきっと知っている。 グリフィンは元気にしているの? 幸せでいてくれてるの? 私はティアにそのことを訊こうと、声を発する。 「グリフィンは…………」 「兄は死にました」 私の問いと同時に答えが返ってきた。 「っ!?」 私は両手で自らの口を覆い、目を見開いた。 「……天使様、兄があの後どう暮らしてたか……訊きにいらしたんですか?」 ティアの表情は冷たかった。 それでも、私は彼のことを聞きたくて、 「……はい」 頭を下げながら答えた。 「……私は天使様はてっきり、ここに残って下さるのだとばかり思っていました。兄も約束したって言ってましたし……」 ティアは哀しげに微笑む。 「……ごめんなさい……」 私はただただ、頭を垂れるばかり。 「……天使様が帰られて直ぐは酷く荒れてたんですよ。ベイオウルフの仲間とも揉めて頭目の座を狙われたり……命を狙われたりしたこともありました。毎日お酒の量も増えていくばかりで、私が止めても全然聞き入れてくれなくて……諍いや生傷は絶えたことがありませんでした」 「……っ……」 ティアの言葉に私は辛くて耳を塞ぎたくなった。 まさかそのまま弱ったりなんて……まして、それが原因で亡くなったなんてことは……。 グリフィンに限ってそんなことあるわけ…………。 「……それで……グリフィンは…………」 私は大きく唾を飲み込んだ。生唾が喉を鳴らして胃へと流れていく。 私はその先を聞くことにした。 聞かねばならないと思った。 彼の辿った道を知るのが私に与えられた唯一の償いだと思うから。 どんな結果でも、きちんと受け入れたい。 「そんな生活を送っていて、五年経った頃でしょうか……天使様はイダヴェルさんて方……知っておられますか?」 「え? イダヴェルさん? ……ええ、知っていますよ?」 意外だった。 イダヴェルさんの名前をティアの口から聞くとは思わなかったから。 「イダヴェルさんは兄のことを噂で聞いて、心配して訪ねて来てくれたんです」 「……そう……」 私がちゃんと聞いているのを確認すると、ティアは続けた。 「イダヴェルさんは何度も何度も訪ねて来てくれて、兄の暴走を身を持って止めてくれました。兄が正気になった後、二人はお付き合いするようになったんです」 そう告げ終えたティアの表情が僅かに柔らかくなった気がした。 「……そう……イダヴェルさんと…………」 ティアの言葉に安心した気持ちと、胸を締め付けるような小さな痛みが複雑に交わる。 「しばらく付き合った後、二人は結婚しました。でもある日、兄は仕事中に事故で亡くなってしまったんです」 「……仕事中の事故……?」 グリフィンの仕事……イコール、お金持ちの家に盗みに入る。 何度言っても、グリフィンはそれをやめてはくれなかった。 その最中の事故? まさか、入ったお屋敷で捕まったとか……? 私は考えを巡らせてみる。 「……ええ……兄は盗賊ですから危険はつきものです。逃走中にうっかり足を滑らせて崖から転落したと聞いています」 「……そんな……」 私はティアの言葉に耳を疑った。 彼に限ってそんなヘマはしないはず。 追っ手だって、いつも鮮やかに撒いてみせていた。 だって、インフォスを救った勇者なのよ? なのに、どうして。 事故で亡くなったなんて…………信じられない。 衝撃を受けた私の顔を見ながら、ティアは優しく微笑む。 「天使様、そんな哀しい顔をしないで下さい。兄は幸せでしたよ。ただ……兄は素直な人じゃありませんから……イダヴェルさんには申し訳なかったな~って思って。……お兄ちゃん……イダヴェルさんに天使様のことを話したことがなかったそうです」 「……そう……どうしてなのかしら?」 どうして、私のことを話さなかったんだろう。 話して、憎んでくれて良かったのに。 ねぇ、グリフィン。 「…………天使様」 ティアは私を真っ直ぐに見つめる。 「はい」 真摯な態度に私も彼女を見つめ返した。 「……兄はずっとあなたのことを想っていました。でも、兄は天使様のことを恨んではいませんでしたよ」 「え?」 「……亡くなる一週間程前でしょうか……天使様には天使様の立場があるから仕方がなかったんだって……言ってました。自分は自分でイダヴェルさんや子供を守って行くと」 「…………子供?」 「……はい……兄にはイダヴェルさんとの間に子供が居まして……」 「……子供が居たの……そう…………」 ――ショックだった。 グリフィンに子供がいたなんて。 時の流れとは本当に残酷だと、思った。 それと同時に安堵さえも感じる。 グリフィン、あなたは幸せだったのね? 私が去った後、あなたにはあなたの家族が出来た。 私のことはちゃんと過去として、清算出来てたのね。 ……それなら、いいの。 そうであったなら、私はいくらかは救われる気がする。 そうであったなら、救われる。 救いなんて、求めちゃいけないのは、わかってるのに、私はなんて、罪深い女なのだろう。 この後の、ティアの言葉は、 きっと、 グリフィンの、 イダヴェルさんの、 ティアの、 長い年月の哀しみと辛い想いの積み重ね。 ――私はその叱責を受けなければならない。 「……本当は言わないでおこうかと思ったけど……言いますね」 ティアは穏やかな口調を一変して、伏し目がちに、告げ始めた。 「え?」 「……本当は、事故のあったあの日、兄は天使様に似た女性を助ける為にその場所に行きました。別の盗賊団から誘き出されたんです。女性も仲間だったのですが、兄は女性を庇い暴行を受け続けました。最後には女性と一緒に崖から落とされ、二人とも亡くなりました。それを目撃した人によれば、亡くなる時、兄は動かなくなった女性の手を探るように握って、天使様の名前を呼んだんだそうです」 ティアの瞳が揺ら揺らと涙を湛え、話し終えると、彼女は唇を噛んだ。
to be continued…