贖いの翼・番外編7:空腹① フェインside

前書き

時期的には本編第五話辺り。旅の途中、またも堕天使の罠に引っ掛かった二人のお話。

『フェイン!』


 そう、天使の声が聞こえて、俺の世界が真っ黒に塗り潰されて、もうどれくらい経ったのだろう。


 一時間? それとも半日?


 ポタリ、ポタリ。


 何か、生温かいような雫が俺の頬に当たるのを感じる。

 それから、ほのかに甘い香り。
 薔薇の香りに似ている。
 どこかで嗅いだような、嗅いでいないような……。


 ポタリ。


 また雫が俺の頬に当たる。


「……ん……」


 その僅かな感触に、俺は未だ暗い世界の中で目を覚ました。

「……ここは……」

 暗い世界とは、目を開いたはいいが漆黒の闇で辺りの様子がよくわからない世界。

 辺りを見回しても、目を凝らしてもただ、闇、闇。

 わかるのは、

 俺は仰向けの状態で横になっており、背に不揃いで歪な感触のする冷たい石床。
 どこの部屋なのかはわからないが、多少の黴臭さを帯びた、冷えて湿気った空気が井戸の底や地下牢を連想させる。
 身体も床に熱を奪われ、相当冷えている。これが寒い地方なら、俺は凍死していたかもしれない。

 それとは対照に身体のある部分だけ状況が違った。
 後頭部にほのかな温かさと弾力を感じる。


「……気が付きましたか?」
「ん……?」

 声が俺の頭上から降って来た。
 おぼろげだが、彼女の髪が俺の頬に僅かに触れるので、彼女が俺を見下ろしているのがわかる。

「……ああ、ウィニエル、君か」

 俺は冷え固まって動きの鈍い両手を伸ばし、彼女の頬を包んだ。彼女の頬には冷たい水滴のようなものと、涙が乾いたような痕、そして、今流れたのか温かい雫が伝い俺の手に触れる。

「……どうして泣いている?」

 俺は彼女が何故泣いているのかわからなかったが、急に胸が締め付けられて切なくなる。


 きっと、情けない顔をしているんだろう。
 セレニスを愛しながら、君を抱いた卑怯者の俺だ。


 君に惹かれるわけには行かない。


 どうしても。


 ここなら俺の表情などわかるまい。
 暗い闇の空間で良かったと、心底思っていた。


「……良かった……フェインが無事で。中々気が付かないから、どうしようかと」

 どうやら俺はウィニエルの膝に膝枕をされている格好で、冷たい石床の上に仰向けになっていたようだ。

「……ここは……どこだ? 俺は何時間寝ていた?」

 自分の記憶を思い起こしながら彼女に訊ねてみる。

「……ここがどこなのかはわかりませんけど……時間は半日位でしょうか……」

 ウィニエルの表情はよく見えないが彼女の吐息が掛かる。
 その穏やかな声は俺を安心させた。

 確か俺は森の中を歩いていたはずだ。


◇


 ――その時はまだ昼前。


 途中、ウィニエルが訪ねて来て周りの景色を眺めながら談笑し、少し休憩を取った。
 その後、彼女がしばらく同行するというから、一緒に歩く。
 正午には近くの街に着く予定だった。
 街へ着いたら一緒に食事でもしようか、なんて話をしながら。

 だが、予定は狂わされてしまう。

 ほんの一瞬の隙が命取りになることをわかっていたのに、彼女と居ると時々、ふっ、と隙が生まれる。
 それでも気を付けてさえいれば、直ぐに対処出来ていた。

 だが、今回ばかりは油断していた。
 それは隙と重なり、俺を闇へと落とし入れる。

 最近の堕天使の動きを甘く見すぎていたんだ。

 天竜が現れてからというもの、以前よりも強い魔力に惹かれるように俺と彼女は、森の空気が変わったことにも気が付かないまま、歩き続けていた。
 次第に辺りが暗闇に包まれていくことに気付いた頃にはもう、手遅れだった。まだ昼だというのに木々が形作る影だと軽く捉えていたが、それは堕天使の作る影と溶け合い、真の闇へと姿を変えていた。


『フェイン!』


 彼女の声と同時に俺の手に彼女の手が重なった。

 歩いていた足元の地面が突如消え、闇に姿を変えたのだ。
 それと同時に俺の意識が遠退き、視界が暗闇に落ちていく。
 俺の意識が飛ぶ一瞬、ウィニエルの香りが俺を包んだような気がした。

 その後で、俺は完全に意識を失った。


 落とし穴……


 そう一言で言えば説明がしやすい。


 それから……


 半日も経ったのか。


 自分の身に何が起きたのかはよくわからない。
 ただ、一瞬の隙をついて堕天使が罠を仕掛けてきたことだけは確かだ。


 そして、俺に外傷がないのも身体に冷えしか感じないからわかる。


「……地の底……か」

 地に熱を吸われた身体は硬く、辛うじて動くのは腕だけだ。
 その腕から伸びる手を、目いっぱい掲げ呟くように告げたが、上を見ても光など無かった。


 本当に俺は落とし穴に落ちたのだろうか?


 堕天使の造る空間。

 地の底へ落ちたのか、
 闇へ落ちたのか。

 それとも、まだ、その途中なのか。


「あそこから落ちたんですよ。どこか痛い所ありませんか?」


 彼女も上を見上げているのか、俺に彼女の吐息は掛からなかった。
 その代わりに彼女の両手が掲げた俺の手を包む。

 ささやかなぬくもりが俺を包むのは今日は二回目。

 闇に落ちた時、彼女は咄嗟に俺の手を掴んだ。
 その温もりを俺はおぼろげだが、記憶している。


 天使と一緒に、闇に落ちた。


 闇を払うには光が必要だ。


 ――光。


 俺にとって、彼女がその光に近い。
 いや、今の俺にとって光そのものなのかもしれない。

 まだ俺には強すぎる光だが、これ程心強いことはない。
 彼女が居るなら、俺は自分を見失わずに済みそうだ。


 きっと、真の闇になど落ちたりはしないだろう。


 それを望んだとしても彼女が居る限り、俺は落とされはしない。
 何度でも這い上がり、必ず堕天使を倒すだろう。


 堕天使を倒せば、彼女は天界へと帰る。
 そして、俺はやっとのことで、闇に還ることを許される。


 それまでは光に包まれたままで、いいだろう?


 なぁ、
 セレニス。


 もうしばらく、待っていてくれ。
 都合がいいと、自分でもわかっている。

 この世界の元凶を断つという大義名分を盾に、俺は二人の女性を欺いている。

 セレニスには愛を唱え、心は君の物だと、ウィニエルを抱く。
 ウィニエルには、心はセレニスの物だが、君が俺を望むからとこじ付け、君をこの腕に抱く。


 大義名分がなくなったら、俺はどうなるんだろう。


 ……実際は、あまり考えていない。


 いや、考えたくないというのが、正しいのかもしれない。

 先がどうなるか。

 俺には未来を夢見ることなど許されはしない。
 きっといつか、罰が当たる。


 それでも、ウィニエルと今は離れられない。


 どうしても、離れられないんだ。


「ああ、怪我はしていないようだ。ただ冷えたのか、少し寒いな」
「大丈夫ですか? どうしましょう。ここには身体を温めるものが何もないですし……」

 俺の応えに彼女は俺の手を自らの口元へ運び、ふぅ、と息を吹き掛ける。
 冷たく凍えた手に彼女の息が掛かる。

 それは温かくて心地よかった。

「……ウィニエル」

「そちらの手も貸して下さい」

 俺は彼女が言うままに、手を差し出す。

「……フェインの手、とても冷たい」
「……ああ、身体が冷えた所為だろう」

 俺の手は彼女のぬくもりに包まれ、少しずつ熱を取り戻してゆく。

「……いいえ、あなたの手はいつもひんやりしてて、心地が良いんです」
「……そうか」

 ふぅ、と彼女は言葉の合間に温かな風を俺に送る。

「……でも今日はちょっと冷たすぎますね」

 彼女はそう告げて、自分の頬へと俺の両手を導いた。
 彼女の両頬を俺が包むと、彼女のぬくもりが更に伝わってくる。

「……そうだな、実際冷えすぎて、あまり感覚もないんだ。冷えで血流が一時的に悪くなっているのかもしれない」

 彼女の頬は温かくて、次第に手の感覚が戻ってくるのがわかった。
 それは何故か添えられた彼女の手よりも随分と温かく感じた。

 これなら血流が元に戻るのも速いかもしれない。

「手が冷たい人は、心が温かいと聞いたことがあります」
「ん?」

 手の感覚が戻りつつある俺に、彼女は自分の手を俺の手に重ね、告げた。
 その後で、

「納得……」
「……何が?」

 彼女が小声で呟くから、俺は訊き返していた。

「フェインは優しい人だから……手が冷たかったんですね」

「……何を言うかと思えば……」


 ウィニエルは馬鹿だ。
 手の温もりだけで、その人の人となりなど、わかるはずもないというのに。


 俺が優しい?


 その言葉が卑怯者の俺を図に乗らせる、最高の糧となることもわかっていない。
 俺は自分のことしか考えていない卑怯者だ。

 優しくなどない。

 自惚れかもしれないが、彼女は俺を想い過ぎて、真実が見えなくなっているんじゃないのかと思う時がある。
 そして、それを望んでいる俺が居る。
 彼女にそう想わせたい俺が居る。

 彼女の全てが俺を想っているわけではないことを、俺は知っているから。

 名前など口にしたくもない、姿形もわからない、俺以外の男。
 その影は今も彼女のどこかに潜んでいるはずだ。

 俺はそれが許せない。

 だからこそ、彼女に俺を想わせたい。
 俺を追うように仕向けたい。


 だが、俺は彼女を愛しはしない。


 愛するわけには行かないんだ。



「……でも、この手は温かい……、 …………」



 俺が考えを巡らせている間に、ぽつりと彼女はそう告げると黙り込んでしまった。


 “でも、この手は温かい”


 この言葉に二つの意味が浮かぶ。
 ウィニエルは何を含んで、そう呟いたんだろうか。

 一つ、好意的に受け入れるならば、“冷たい手を温かく感じている”ということ。
 精神が安定するということなのかもしれない。

 もう一つは、“冷たい手はやはり温かいのかもしれない”ということだ。

 温かい手の持ち主は冷たい心を持っている。安直過ぎるがそう考えれば、何となく見えてくる。
 つまり、俺が本当は冷たい奴なのかもしれないと、彼女は内心恐れているんだ。

 突き詰めていくと、俺が卑怯者だと彼女は理解しているが、やはり離れられない。


 ……考えすぎか。

to be continued…

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