前書き
時期的には本編第五話辺り。旅の途中、またも堕天使の罠に引っ掛かった二人のお話。
『フェイン!』 そう、天使の声が聞こえて、俺の世界が真っ黒に塗り潰されて、もうどれくらい経ったのだろう。 一時間? それとも半日? ポタリ、ポタリ。 何か、生温かいような雫が俺の頬に当たるのを感じる。 それから、ほのかに甘い香り。 薔薇の香りに似ている。 どこかで嗅いだような、嗅いでいないような……。 ポタリ。 また雫が俺の頬に当たる。 「……ん……」 その僅かな感触に、俺は未だ暗い世界の中で目を覚ました。 「……ここは……」 暗い世界とは、目を開いたはいいが漆黒の闇で辺りの様子がよくわからない世界。 辺りを見回しても、目を凝らしてもただ、闇、闇。 わかるのは、 俺は仰向けの状態で横になっており、背に不揃いで歪な感触のする冷たい石床。 どこの部屋なのかはわからないが、多少の黴臭さを帯びた、冷えて湿気った空気が井戸の底や地下牢を連想させる。 身体も床に熱を奪われ、相当冷えている。これが寒い地方なら、俺は凍死していたかもしれない。 それとは対照に身体のある部分だけ状況が違った。 後頭部にほのかな温かさと弾力を感じる。 「……気が付きましたか?」 「ん……?」 声が俺の頭上から降って来た。 おぼろげだが、彼女の髪が俺の頬に僅かに触れるので、彼女が俺を見下ろしているのがわかる。 「……ああ、ウィニエル、君か」 俺は冷え固まって動きの鈍い両手を伸ばし、彼女の頬を包んだ。彼女の頬には冷たい水滴のようなものと、涙が乾いたような痕、そして、今流れたのか温かい雫が伝い俺の手に触れる。 「……どうして泣いている?」 俺は彼女が何故泣いているのかわからなかったが、急に胸が締め付けられて切なくなる。 きっと、情けない顔をしているんだろう。 セレニスを愛しながら、君を抱いた卑怯者の俺だ。 君に惹かれるわけには行かない。 どうしても。 ここなら俺の表情などわかるまい。 暗い闇の空間で良かったと、心底思っていた。 「……良かった……フェインが無事で。中々気が付かないから、どうしようかと」 どうやら俺はウィニエルの膝に膝枕をされている格好で、冷たい石床の上に仰向けになっていたようだ。 「……ここは……どこだ? 俺は何時間寝ていた?」 自分の記憶を思い起こしながら彼女に訊ねてみる。 「……ここがどこなのかはわかりませんけど……時間は半日位でしょうか……」 ウィニエルの表情はよく見えないが彼女の吐息が掛かる。 その穏やかな声は俺を安心させた。 確か俺は森の中を歩いていたはずだ。 ◇ ――その時はまだ昼前。 途中、ウィニエルが訪ねて来て周りの景色を眺めながら談笑し、少し休憩を取った。 その後、彼女がしばらく同行するというから、一緒に歩く。 正午には近くの街に着く予定だった。 街へ着いたら一緒に食事でもしようか、なんて話をしながら。 だが、予定は狂わされてしまう。 ほんの一瞬の隙が命取りになることをわかっていたのに、彼女と居ると時々、ふっ、と隙が生まれる。 それでも気を付けてさえいれば、直ぐに対処出来ていた。 だが、今回ばかりは油断していた。 それは隙と重なり、俺を闇へと落とし入れる。 最近の堕天使の動きを甘く見すぎていたんだ。 天竜が現れてからというもの、以前よりも強い魔力に惹かれるように俺と彼女は、森の空気が変わったことにも気が付かないまま、歩き続けていた。 次第に辺りが暗闇に包まれていくことに気付いた頃にはもう、手遅れだった。まだ昼だというのに木々が形作る影だと軽く捉えていたが、それは堕天使の作る影と溶け合い、真の闇へと姿を変えていた。 『フェイン!』 彼女の声と同時に俺の手に彼女の手が重なった。 歩いていた足元の地面が突如消え、闇に姿を変えたのだ。 それと同時に俺の意識が遠退き、視界が暗闇に落ちていく。 俺の意識が飛ぶ一瞬、ウィニエルの香りが俺を包んだような気がした。 その後で、俺は完全に意識を失った。 落とし穴…… そう一言で言えば説明がしやすい。 それから…… 半日も経ったのか。 自分の身に何が起きたのかはよくわからない。 ただ、一瞬の隙をついて堕天使が罠を仕掛けてきたことだけは確かだ。 そして、俺に外傷がないのも身体に冷えしか感じないからわかる。 「……地の底……か」 地に熱を吸われた身体は硬く、辛うじて動くのは腕だけだ。 その腕から伸びる手を、目いっぱい掲げ呟くように告げたが、上を見ても光など無かった。 本当に俺は落とし穴に落ちたのだろうか? 堕天使の造る空間。 地の底へ落ちたのか、 闇へ落ちたのか。 それとも、まだ、その途中なのか。 「あそこから落ちたんですよ。どこか痛い所ありませんか?」 彼女も上を見上げているのか、俺に彼女の吐息は掛からなかった。 その代わりに彼女の両手が掲げた俺の手を包む。 ささやかなぬくもりが俺を包むのは今日は二回目。 闇に落ちた時、彼女は咄嗟に俺の手を掴んだ。 その温もりを俺はおぼろげだが、記憶している。 天使と一緒に、闇に落ちた。 闇を払うには光が必要だ。 ――光。 俺にとって、彼女がその光に近い。 いや、今の俺にとって光そのものなのかもしれない。 まだ俺には強すぎる光だが、これ程心強いことはない。 彼女が居るなら、俺は自分を見失わずに済みそうだ。 きっと、真の闇になど落ちたりはしないだろう。 それを望んだとしても彼女が居る限り、俺は落とされはしない。 何度でも這い上がり、必ず堕天使を倒すだろう。 堕天使を倒せば、彼女は天界へと帰る。 そして、俺はやっとのことで、闇に還ることを許される。 それまでは光に包まれたままで、いいだろう? なぁ、 セレニス。 もうしばらく、待っていてくれ。 都合がいいと、自分でもわかっている。 この世界の元凶を断つという大義名分を盾に、俺は二人の女性を欺いている。 セレニスには愛を唱え、心は君の物だと、ウィニエルを抱く。 ウィニエルには、心はセレニスの物だが、君が俺を望むからとこじ付け、君をこの腕に抱く。 大義名分がなくなったら、俺はどうなるんだろう。 ……実際は、あまり考えていない。 いや、考えたくないというのが、正しいのかもしれない。 先がどうなるか。 俺には未来を夢見ることなど許されはしない。 きっといつか、罰が当たる。 それでも、ウィニエルと今は離れられない。 どうしても、離れられないんだ。 「ああ、怪我はしていないようだ。ただ冷えたのか、少し寒いな」 「大丈夫ですか? どうしましょう。ここには身体を温めるものが何もないですし……」 俺の応えに彼女は俺の手を自らの口元へ運び、ふぅ、と息を吹き掛ける。 冷たく凍えた手に彼女の息が掛かる。 それは温かくて心地よかった。 「……ウィニエル」 「そちらの手も貸して下さい」 俺は彼女が言うままに、手を差し出す。 「……フェインの手、とても冷たい」 「……ああ、身体が冷えた所為だろう」 俺の手は彼女のぬくもりに包まれ、少しずつ熱を取り戻してゆく。 「……いいえ、あなたの手はいつもひんやりしてて、心地が良いんです」 「……そうか」 ふぅ、と彼女は言葉の合間に温かな風を俺に送る。 「……でも今日はちょっと冷たすぎますね」 彼女はそう告げて、自分の頬へと俺の両手を導いた。 彼女の両頬を俺が包むと、彼女のぬくもりが更に伝わってくる。 「……そうだな、実際冷えすぎて、あまり感覚もないんだ。冷えで血流が一時的に悪くなっているのかもしれない」 彼女の頬は温かくて、次第に手の感覚が戻ってくるのがわかった。 それは何故か添えられた彼女の手よりも随分と温かく感じた。 これなら血流が元に戻るのも速いかもしれない。 「手が冷たい人は、心が温かいと聞いたことがあります」 「ん?」 手の感覚が戻りつつある俺に、彼女は自分の手を俺の手に重ね、告げた。 その後で、 「納得……」 「……何が?」 彼女が小声で呟くから、俺は訊き返していた。 「フェインは優しい人だから……手が冷たかったんですね」 「……何を言うかと思えば……」 ウィニエルは馬鹿だ。 手の温もりだけで、その人の人となりなど、わかるはずもないというのに。 俺が優しい? その言葉が卑怯者の俺を図に乗らせる、最高の糧となることもわかっていない。 俺は自分のことしか考えていない卑怯者だ。 優しくなどない。 自惚れかもしれないが、彼女は俺を想い過ぎて、真実が見えなくなっているんじゃないのかと思う時がある。 そして、それを望んでいる俺が居る。 彼女にそう想わせたい俺が居る。 彼女の全てが俺を想っているわけではないことを、俺は知っているから。 名前など口にしたくもない、姿形もわからない、俺以外の男。 その影は今も彼女のどこかに潜んでいるはずだ。 俺はそれが許せない。 だからこそ、彼女に俺を想わせたい。 俺を追うように仕向けたい。 だが、俺は彼女を愛しはしない。 愛するわけには行かないんだ。 「……でも、この手は温かい……、 …………」 俺が考えを巡らせている間に、ぽつりと彼女はそう告げると黙り込んでしまった。 “でも、この手は温かい” この言葉に二つの意味が浮かぶ。 ウィニエルは何を含んで、そう呟いたんだろうか。 一つ、好意的に受け入れるならば、“冷たい手を温かく感じている”ということ。 精神が安定するということなのかもしれない。 もう一つは、“冷たい手はやはり温かいのかもしれない”ということだ。 温かい手の持ち主は冷たい心を持っている。安直過ぎるがそう考えれば、何となく見えてくる。 つまり、俺が本当は冷たい奴なのかもしれないと、彼女は内心恐れているんだ。 突き詰めていくと、俺が卑怯者だと彼女は理解しているが、やはり離れられない。 ……考えすぎか。
to be continued…