前書き
「罪」辺りのウィニエルsideのお話。
今だけは何も言わないで、お願いよ――。 夜がもうすぐ明ける。 窓越しに見える地平線の下から漆黒の闇を紫へ、薄っすらと青が白が、日の光が徐々に昇り、私の目に届く。 あと一時間もすれば街は起き出して、人々は真っ白な息を吐いて行き交う。 いつものようにいつも通りの日常に戻る。 私が寝静まった後雪が降ったのだろう。 新雪が街を覆っていた。 いや、私が寝静まった後じゃなくて、 正しくは私達が寝静まった後。 まさかあんなことになるなんて思わなかった。 今でも信じられない。 フェイン……。 私は身体を起こして隣に眠る彼の顔を覗く。 心地良さそうに眠っている。 ただ、私が身体を起こしたために掛け布団の間から冷たい風が入るのか掛け布団を引っ張り自分の方へと寄せようとして、少し寒そうではある。 私は彼の眠る姿を見て安心していた。 こんなにも愛しく、優しく彼を見つめたことなどあったかしら? 満ち足りた幸福感。 寝起きでまだ眠りから覚めない頭が現実を思い出すまでの間のほんの一時。 「……風邪でもひいたら大変……」 私は彼に布団を掛けてあげる。 彼は眠ったまますぐに反応して、布団を自分の身体に纏うようにして私に背を向け、 「んん……寒い……」 肩を震わしながら小さく唸った。 無意識でやるそれを私は可愛いと思った。 「……ふふっ……可愛い……」 私は暑さや寒さをあまり感じないから、彼の行動がとても新鮮で。 「……ぁ……」 私はふと、部屋にあった鏡台に目をやる。 遠目でよく見えないので、私はベッドから降りた。 「……いっ……痛っ」 寝起き頭で気付かなかったが、立ち上がると身体中に激痛が走る。 身体のあちこちが痛い。 翼も、腕も、脚も、背中も、首も、胸も……あそこも。 私はよろめきながらなんとか鏡の前に立った。 「……っ……」 そして、私は絶句してしまう。 翼は所々折れて血が固まっている。 身体には痣が付いている。 赤に似た紫と青色の痣が胸の辺りから首元に、足首に太股、そして背中。 太股辺りに何かこびり付いて拭い去った後が残っている。 それが何か私が思い出すのにそう時間は掛からなかった。 酷い姿だ。 これが天使だなんて誰が思うのだろう……。 悪魔に堕とされたと、堕天使はきっと嘲笑うわ。 いやらしい姿。 こんな姿で他の勇者にしばらく会えない。 それ以前に彼がもし起きてこんな姿を見たらどう思うのだろう。 彼のことだから、後悔するんじゃないかしら。 悔いて償おうとするんじゃないのかしら。 そんなのして欲しくない。 どうしよう。 どうしたらいいんだろう。 とりあえず、シャワーを浴びよう。 熱いシャワーを浴びて、冷静になろう。 そう思い立って、バスルームへと足を向かわせる。 私の身体は重くて、彼を起こさないように部屋に備え付けてあるバスルームへ行くまでに随分時間が掛かってしまった。 バスルームのタイル張りの床は深夜の寒さで冷たかったけれど、人間でない私には気にする程のことではなかった。 とにかく、早くシャワーを浴びなくては。 未だ目覚めたばかりで定まらない思考の中にそればかりを必死で思い描く。 「……えっと……これがお湯ね……」 シャワーの蛇口を捻ると、始めに冷たい水が出て次第に白く朧な湯気が立ち、熱くなっていく。 私はそれに構わず水から身体にシャワーを浴びた。 冷たいとか、熱いとか、感じることは殆どなかった。 でも、昨日は感じてしまった。 彼が温かいと、 ううん、彼は熱かった。 熱くて、私は溶けてしまうかと思った。 あのまま雪のように溶けてしまえたら良かったのに。 何となくお湯を出したのは、バスルームに立ち込める白い水蒸気が私に付いた痣を覆い隠してくれるような気がしたからだった。 私は水蒸気で白く煙ったバスルーム内の鏡を目の前にして胸に付けられた痣をなぞってみた。 赤紫の彼が付けた私を征服した証。 少しくすぐったくて、私の頬が赤く染まっていく。 しばらく消えないであろう彼が付けた痕。 ふと昨晩のことが頭を過ぎってくる。 あんなことになるなんて思ってもいなかったな……。 思い出した途端自然に身体が熱っていくのがわかる。 私はどうかしてしまったのかもしれない。 鏡の中に虚ろに痣を人差し指で愛しくなぞる女がいる。 「……この痣……前にも……っい、痛っ!?」 痣をなぞりながら幸福感に浸っている女を、突然頭痛が襲った。 もう薬はないと、ミカエル様は言ってらしい。 そしてローザは頭痛は前触れだから恐れるなと。 一体何の前触れなの? 私は何を恐れているというの? 「痛っ…」 頭痛は私の脳内を溶かすように脈打ちながら襲ってくる。 徐々に痛みが大きくなって、私はその場にへたり込んでしまう。 「……ううっ……助け……フェ……イ……」 私は頭を抱えて彼の名を呼ぼうとする。 このまま意識を失ったら楽なのに、痛みはそれを許してはくれない。 もう頭痛が治まることは無いと、私はわかってしまった。 ローザの言ったように恐れずこのまま、私は何かを思い出さなければいけない。 何か大事なことを私は忘れている。 何かきっかけはあったはず。 何かおかしかったことはなかった? 思い出してウィニエル。 何かあったはずよ。 「……っ……ううっ……。あ……」 頭を抱えて、蹲ると、たった一つだけ。 私は一つだけ思い出した。 フェインが昨日、突然乱暴になった。 途中まであんなに優しくしてくれていた彼が急に私をベッドに叩きつけて、足首を乱暴に掴んで無理矢理……。 そのことと関係しているの? 何で? 何故彼はあんなことをしたの? 私……何か言った……? …………。 思い出せそうな気がする。 思い出したような気がする。 「…っ…帰らなくちゃ…」 私は痛み続ける頭を抱えたままシャワーを止めて、彼の居る部屋に戻った。 彼はまだ眠っていて、私はほっとして胸を撫で下ろした。 今彼の顔を見るわけにはいかない。 私は彼に酷いことを言ってしまったのだから。 忘れていたとはいえ、無意識だとはいえ、彼はルールを守っていた。 暗黙のルール。 言ってはいけない言葉。 私は部屋に散乱する皺になった服を身に纏って部屋を後にした。 彼に顔向けが出来ない。 どんな顔で目が覚めた彼を見つめたらいいの? 服を纏っても私の姿が酷いことは一目でわかる。 こんな姿ではガブリエル様やラファエル様、ミカエル様の信頼はがた落ちだろう。 それでも帰らなくてはならない。 私に掛けられた封印を解かねばならない。 ◇ 「ウィニエル様っ!? そのお姿は……!?」 天界に戻るとローザが聖アザリア宮の前に待ち構えていた。 彼女は扉を塞ぐようにして宙に浮いている。 「ローザ、通して」 私は彼女に強い口調で訴える。 こんな風に強く言ったのは初めてかもしれない。 「いけません、ウィニエル様!そんなお姿でラファエル様に会われるなんて!」 ローザは首を横に何度も振る。 泣いているのか、水滴が私の顔に当たる。 彼女が泣くなんてよっぽどのことだと思ったけれど、 それでも今、どうしても聞かなければいけないことがある。 「ローザ、通して…お願い」 私は再び彼女に懇願する。 「駄目です! 駄目ったら駄目なんです!」 いつも冷静な彼女が取り乱して私を止める。 それでも私は扉に手を掛ける。 「駄目です! ウィニエル様――っ!!」 扉がいつになく重く鈍い音を立ててゆっくり開いていく。 ラファエル様ならわかっているはず。 どう言い訳するのか、聞きたい。 ――けれど、扉は途中で開くのをやめてしまう。 「……どうして……止めるのですか…」 私は俯いて涙を零した。 「……ミカエル様……」 扉にはミカエル様の手が掛けられていて、開けようとする私の邪魔をしている。 強い力で扉を閉じていく。 私は力なく扉の取っ手から自らの手を放した。 「こら、ウィニエル、妖精を泣かすとは何事だ」 ミカエル様の声が俯く私の頭上に響く。 「……だって……」 「……だってじゃないだろう。妖精を泣かしてティタニアに怒られるのはラファエルなんだぞ? そんなことがバレてみろ。ラファエルの信頼を失うぞ」 ミカエル様の言ってることを、普段の私なら聞き入れられたと思う。 でも今は出来ない。 「だって……思い出したんですよ、私」 私はミカエル様の方を振り返る。 ミカエル様の青い瞳を強く見つめる。 「そうか……」 「ミカエル様っ!?」 ミカエル様は唐突に私を抱きしめる。 『そうか……思い出したのか……』 ミカエル様の声が耳元に響く。 腕はとても逞しくて、力強くて、私は驚いたけれどすぐに心地良さを感じる。 そして、私は意識を失ってしまう。
to be continued…