ミカエル様は一体私に何をするつもりなのだろう。 けれどそんな考えすら深い深い眠りの奥へと追いやってしまう。 さっきまでしていた頭痛が和らいでいく。 ううん、和らぐのではなく、消滅していく。 頭痛の根源を解消したから。 ミカエル様はどこか不思議な方で、何かある度に私の前に現れる。 そう、あの時もそうだった。 記憶が甦ってくる。 想いが溢れてくる。 ああ……私は……。 『……薬を渡さなかったからこうなったんだ。渡しておいただろう?』 気を失っている私の傍でミカエル様の声が聞える。 不機嫌に、吐き捨てるような声。 誰に言ってるの……? 『あのままではウィニエル様は壊れてしまっていました。遅かれ早かれ取り戻されると私は信じていました。ミカエル様もそれを望んでおられたのではないのですか?』 ミカエル様に臆することない、ローザの声……。 私の為に言ってくれてるのね……ありがとう。 『全てが終わるまでガブリエルとラファエルには秘密にしておく。俺が全責任を取ってやるからお前も黙っているんだ』 『はい』 何をですか、ミカエル様……ローザ……。 私の意識はここにあった。 目は開かなくて口も聞けないけれど、二人の会話を聞いて理解することは出来る。 『…天界に彼女の力が必要だったとはいえ、ウィニエルの記憶じゃなく、想いだけを封じるなんて、堕天使の力の使い方と大して変わらんかもしれん。…ウィニエルを操り人形にしてしまったんだからな』 ミカエル様の声が後悔の声に聞える。 ああ……そうだ……忘れていたのは記憶じゃなくて、想い。 インフォスの勇者……グリフィンへの想い。 互いに想い合ったのに、同じ道を歩むことが出来なかった。 彼は地上界に、私は天界に。 納得して別れたわけじゃない。 私は彼と約束していた。 “地上に残ります”と。 数々の困難を共に潜り抜けて私は彼から沢山の物を得た。 戦いの心構え、他の勇者への気配り、人間という生きものがどれ程強いのか、そして恋という感情、様々な想い。 彼を通して私は憶えてきたのだ。 混乱したの世界の苦しみも辛さも乗り越えて、その先の光を、彼の元で人間となって共に未来を歩もうと思っていた。 ガブリエル様に報告をして、彼の元へ。 けれどそれは止められてしまったの。 インフォスを救ったことで天使の仕事に自信と誇りは確かに持っていた。 遣り甲斐も感じていたのも事実。 ミカエル様に止められて、ガブリエル様に説得されて。 ラファエル様もインフォスでの私の働きを褒め称えて引き止めた。 あの時の私に恩師のミカエル様達を差し置いて人間になるなんて出来なかった。 涙を呑む思いをした。 彼と天界を天秤にかけてしまった。 そして、私は天界を選んだ。 もうずっと昔のこと。 思い出したところで、もう彼に会うことなど出来ない。 彼が待っているわけがない。 インフォスではあれからもう何十年も経っている。 もう生きてはいないのかもしれない。 そして、私は天界に生きることを選んでしまったことをすぐに後悔していた。 毎日泣き暮らし、気が狂い、彼を想って何度も死のうとした。 どうやって死んだらいいかわからなくて、自分の爪で両頬を引っ掻いた。 腕も、脚も引っ掻いた。 その度に赤い血が床に飛び散って。 その度に周りに迷惑を掛けて、ミカエル様は時折心配して部屋を訊ねてきては私の傷を治していった。 傷なんて治さなくていいのに。 このまま、もっと傷つけばいい。 彼に会えないならこの身など。 いっそ死んで、魂だけ彼の元へ。 ミカエル様が私の傷を癒す意味がわからなかった。 何度も私の身体の傷を元通りに癒す。 その都度私は自傷行為を繰り返す。 それでもミカエル様は何も言わずに私を癒す。 どうしてそんなことをするの……? ミカエル様のお考えは私にはわからない。 ただ、その時の私は彼のことでいっぱいでどうしようもなかった。 他に何も考えられなった。 天界がどうだとか、インフォスがどうだとか、ただ脳裏に浮かぶのは彼のことだけで。 それを見兼ねたのか、ミカエル様達は私の想いを封じることにした。 ただし、それは不安定で、私が強い想いを抱くと頭痛を引き起こしたのだ。 頭痛は封印が弱まっている証拠で、あの薬は弱くなった封印を強めるための秘薬。 あれを飲めば頭痛が緩和するのは封印が再度掛けられるから。 それでも、それでももし私がまた特定の誰かを強く想うことがあったら、彼の時のような想いを抱くことがあったら、頭痛は必ず私を襲う。 そうなったら何度も薬を飲まなくてはいけない。 秘薬も飲み過ぎれば副作用が出る。 感情を殺すようになってしまう。 想うことを心ではなく頭で理解するようになるのだ。 操り人形のように、頭で理解するだけだから身体が動かない。 心が震えないから、強い感情が表情に出ない。 だからローザは私に薬はもう飲まなくていいと言ったのね。 彼女は気付いていたのかもしれない。 インフォスの時の私、アルカヤの私。 明らかに以前より任務に忠実で、真っ直ぐに取り組んでいる。 インフォスの時とは経験はあれど、桁違いに策略的で、人間味に欠けている。 勇者達の話を聞き、理解はするけれど、感情は伴わない。 そのことに彼女は気付いていたんだわ。 ……フェインよりよっぽど酷い。 私は彼とセレニスさんを、自分とグリフィンに重ねていたんだわ。 互いに想い合っているのにある日突然引き離された、永遠の別れ。 残された者は後を追うことで癒される。 でも、私は死ぬことを許されなかった。 天使が自殺なんて闇に堕ちたのと同じ。 堕天使となるのと同じ。 大天使様達は私をそうさせたくはなかった。 始めは本当に信頼してくれていたと思う。 でも、私の彼への想いがあまりに強く純粋過ぎたのは彼等の誤算だった。 天界から再び堕天使を生むわけにはいかなかったんだわ。 秩序を保ちたかったの。 だから、私の想いを封じた。 そして私は無意識の内にフェインを自分に重ねて簡単に死を選ばせなかった。 私は死ぬことを許されなかった。 だから彼にも絶対許さない。 フェインだけが幸せになるなんて、許さない。 ああ、私はなんて残酷な天使なんだろう。 皆の為に、アルカヤの為に、天界の為に。 ……フェインの為に。 毎日飛び回って、一生懸命に尽くしていたつもりでいた。 勇者達や妖精にも気を遣って彼等の信頼を得、大天使様達には褒められた。 私はそれが嬉しくて。 嬉しくて……。 そんな体裁のいい自分がつくづく嫌になる。 本当は皆から無視されるのが恐いだけだったのに。 グリフィンと離れて、淋しくていつでも誰かと話していたいだけだったのに。 私は思い出してしまう。 彼があの時に言った言葉の一つ一つを、忘れていたわけじゃないの。 ただ、思い出す時にあの時の感情だけが伴わなかっただけ。 あの時、 インフォスでの最後の戦いの時、 ◇ 『ウィニエル、この戦いが終われば一緒に居られるな!』 インフォスの堕天使と戦う寸前に彼は後ろについていく私に振り向いた。 『グリフィン……恐くはないのですか? ……私は恐いです』 徐々に近づく堕天使の強い波動が私の芯を震わせる。 これが寒気だと初めて知った。 けれど、グリフィンの声はいつもと変わらなくて、あなたは恐れなど抱かない強い人なのかと私は彼に問う。 『ウィニエルは馬鹿だな。堕天使なんて全然恐くねーよ。オレが恐いのはあいつを倒した後、お前が天界に帰っちまって戻ってこなかった時だ』 彼の真っ直ぐな青い水晶が私を見つめる。 『え……大丈夫ですよ。天界に報告したら私はちゃんとあなたの元に戻って……』 私は彼の言葉を半分も理解せずに応えていた。 約束は守ります。 私はあなたの元へ戻ってきます。 『……きゃっ!? グリ……フィン……?』 私が最後まで言葉を紡ぐ前に彼に抱き竦められてしまう。 翼ごと、強く優しく。 『……ウィニエル……本当だな?』 彼の息が私の耳に掛かる。 熱くて、くすぐったくて。 でも、とても心地いい。 『……はい……』 私は彼を抱き返した。彼の背に手を回して、彼の胸に耳を宛て、彼の心臓の音を聴く。 少し早い鼓動、そして、 『……オレを一人にするなよ……』 彼は小さく震えていた。 堕天使が恐いわけではない。 私を失いたくないと彼の身体が求めているのがわかった。 グリフィン……。 私は彼を大事に大事に抱きしめていた。 そして、その後見事に堕天使を彼は倒し、インフォスを救った。 戦いが終わってすぐ、私は天界へと報告に行かなくちゃならなくて。 彼と一時の別れ。 まさか永遠の別れになるなんて思いもしなかった、突然の別れ。 『……なぁ、ウィニエル…オレ色々言ったけどさ、お前が選んだ道ならオレは…』 彼は戦う前に言ったことと矛盾したことを口にする。 『……待っていて下さいね。戻って来ますから』 私は変わらず彼に最上級の笑顔で応えた。 『……ああ! 待っててやるよ! ………ウィニエル!!』 彼は少しずつ空高くへ浮いていく私の手を強く引く。 そして、強く、強く私を抱きしめて、私の唇に自分の唇を重ねる。 重ねて、私の唇を熱い衝動でこじ開けて中へと侵入する。 強く激しく、私を溶かそうとするような、甘い口付け。 『……んんっ……グリ……フィン……?』 私は刹那驚いたけれど彼の口付けを止めはしなかった。 だって、彼はすぐに解放してくれると知っていたから。 『……行くな……行くな!!』 しばらく口付けを交わした後、彼は私を縋るように抱きしめる。 『……グリフィン……』 この時の私はまたすぐ会えるのにこんなに引き止めなくても大丈夫なのに……、なんて軽く考えていた。 インフォスが平和になったことを報告しに一旦戻るだけだと、本当に甘い考えをしていた。 でも彼はわかっていたのかもしれない。 この手を放せばもう二度と会えないと。 今の私ならきっと先は読めた。 私、若かったんだわ。 まだ赤子で、幼稚だった。 そんな私が持っていたのは彼への純粋で真っ直ぐな愛だけ。
to be continued…