前書き
四話の続き、フェインsideで書いています。
私と彼は――。 酒の所為で酔っているのかウィニエルの声が少し震えていた。 あの夜に互いの暗黙のルールを破らせた奴の名前。 グリフィンとかいう奴。 一体何者なんだ? あの日の朝、彼女はバスルームから出てきたと思ったら慌てて服を身に纏って部屋を飛び出していった。 悲愴な顔で、何か思い詰めた顔で。 俺が前の晩にしたことで傷ついたのだとずっと思っていた。 何て声を掛けたらいいかわからなくて、俺は咄嗟に眠っている振りをしてしまった。 あれからすぐ俺は彼女を妖精に頼んで何度か呼び出したが、妖精は彼女は忙しくて会えない、の一点張りで、俺は彼女は傷ついて傷心し、それで俺に会いたくないのだと思っていた。 それなら尚更俺は彼女に会って詫びなければならないと思っていたんだ。 それからもう二週間経った。 今日来なければ諦めるつもりでいた。 セレニスを愛しているのに彼女を求めるのはあまりに身勝手だと、自分でもわかっている。 だが、俺が彼女を求めているのは紛れも無い真実で、二週間会えないだけで気が狂いそうになった。 その感情が何なのかを今の俺にははっきりと口にすることはできないが、いつかそれを伝えられることが出来るだろう。 そうしたら、彼女は受け入れてくれるだろうか? そんな日がいつか来ることを俺は願い始めていたんだ。 だから、今日、どうしても会いたかった。 彼女がこの街に降りて来た時、俺はそれを見ていた。 人通りの無い薄暗い路地へ降りて行くのを見た。 俺の足は気付かないうちにそこへ向かって走っていた。 路地に降り立った彼女は酷く淋しそうに空を見上げて、降り積もった雪と共にいつか地に溶けて消えてしまいそうだった。 その光景があまりに美しくて、俺はしばらくその様子に見惚れていた。 けれど雪が再び降って来た時、彼女に降り注ぐ雪は白い羽根になり、彼女を覆い隠して天界に連れ去ってしまうように見えて、俺は慌てて彼女の名を呼んで彼女を抱きしめた。 そして、頭を過ぎるのは未来。 最後の戦いはもうあと何ヵ月後かに迫っている。 俺の撒いた種だ、肌でそれが近いことはわかっていた。 彼女は天界へと帰るのだろうか。 もし彼女がそれを望むなら俺は送り出してやらなければならない。 俺はそれを止める資格を持っていないのだから。 この腕に一度手に入れたものを俺はまた手放すのだろうか? それがいいことなのか悪いことなのか、俺にはまだわからない。 ウィニエルへの想いが何なのかまだはっきりしていない。 「……グリフィンと私は互いに愛し合っていました。ですが、私は彼と同じ未来を歩むことは出来なかったんです」 彼女の唇がカクテルグラスに触れる。 彼女は一口カクテルを口に含むとその艶やかな唇で話を続ける。 俺は彼女の唇に目を奪われたまま、黙って続きを聞いていた。 「……私は地上に戻ると彼に約束をしたにも関わらず天界を選び、彼との約束を破りました。……そして、私はすぐに常軌を逸した行動を起こしました」 彼女が俯く。 それは触れられたくない過去を曝け出すようで、話したくないなら話さなくて構わないと俺は思っていた。 俺がセレニスのことを中々話せなかったように、誰にだって触れられたくない過去はある。 話せるようになったらでいいと、俺は止めようと思った。 「……ウィニエル、話したくないなら何も無理には……」 「……いいえ。何もかも話させてください。私は残酷な天使なんです。……あなたの望みを叶えなかった本当の理由をお教えします」 ウィニエルはまた一口、グラスに口付けた。 「え……」 あの夜、俺はセレニスへの償いが出来なかったことを後悔し、彼女に八つ当たりをした。そして彼女はそれを受け止め、俺を励ましてくれた。 俺はあの夜、初めて君を失いたくないと自覚したんだ。 一年半前、突然俺の前に現れ俺の命を救ってくれた君。 朝も昼も夜も場所もお構いなしに現れて、他愛の無い話をして微笑む君。 戦いの間傷ついた俺を癒し、危険を顧みずすぐ傍で応援し続ける君。 何も無い時でも傍に付き添い俺を見守っている君。 君が帰ってしまうと途端に何か物寂しさを感じて、 俺は君が傍に居るのがいつの間にか当たり前になっていたんだ。 あの夜も、俺は随分酷いことを言った。 だがウィニエル、君はどんな時もただ黙って微笑み、傍に居てくれたな。 俺はあの時気付いたんだ。 君が他の誰かを想っていても俺は君を失いたくないと。 だから君の話を聞こう。 そうすることで俺は君にあの夜の罪を贖える気がする。 後悔はしていない。 勝手だと思われるだろうが、あのことがあったからこそ、こうして君の話を聞きたいと思うのだから。 何を聞いても俺は驚かないだろう。 俺は別の未来を見始めているのだから。 もう死を選んだりはしない。 「俺の望みを叶えなかった理由……?」 俺はジョッキを手にして彼女に訊き返した。 「はい……私は……あなたを私と同じ目に合わせたかっただけなんです……っ……」 彼女は俯いて、カウンターに伏せて肩を小刻みに震わす。 声は小さくて、聞き取り辛い。 多分、泣いているのだろう、息が時折詰まっている。 「……? ……どういうことだ?」 俺は彼女の頭の方へ耳を寄せる。 「……っ……私は彼と……グリフィンと離れたことがショックで……何度も死のうと自分を傷つけました……ひっく……」 彼女は嗚咽をしながら話を続ける。 「な…………あっ!」 俺は驚かないと思っていたが、彼女の言葉に思いの外動揺し、持っていたジョッキを落としてしまう。 酒が床に飛び散り、俺と彼女は呆然と床を見ていた。 すると酒場のマスターが布巾を持ってカウンターから出てきて、 「……お客さん、さっきからなーんかワケ有だね? そちらさん泣いちゃってるし、ここは楽しく飲みたい奴等の店だからさ。悪いけど帰ってもらえるかい? お代は付けにしとくからまた楽しくなったら来てよ」 「なっ……!?」 「……っ……」 酒場のマスターはばつが悪そうな顔でウインクして俺と彼女を酒場から追い出す。 「……っく……っ……」 酒場の扉の前で俺と泣く彼女は立ち尽くしていた。 彼女は、ウィニエルはずっと俯いたままだ。 酒の所為か、感情が高ぶっているのだろう。 涙が止まらないのか必死に拭っている。 俺は彼女に掛ける言葉が見つからずに黙ってそれを見ていた。 外は雪が降り止まずに俺達の身体を冷やす。 「……ひっく……ごめんなさい……フェイン……私っ……あなたを止めてしまって……」 「……何言って…………ん?」 彼女が俺に向かって泣きながら謝る光景を、酒場へ入ろうとする客が白い目で見ていく。 「……ウィニエル、とりあえず歩くぞ」 そう彼女に言ったが、彼女は動こうとはしなかった。 俺は仕方なく彼女の手を取り、無理矢理歩かせることにした。 「……っ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」 歩いている間中、彼女は俺に掴まれていない手で涙を拭う。 行き交う人々が俺達を異様な目で見て通り過ぎる。 その視線が少し鬱陶しくて俺は彼女を広場へ連れていく。 「…………ここなら誰も居ないな」 寒い夜の、しかも雪が積もっている日の広場に人の気配は無かった。 広場にはジュレ状になった氷を張った水の止まった円形の噴水と、薄暗い街灯がいくつかあった。 天気の良い休日には二十の出店が出せる程度の広さだ。 今は雪に埋もれ、しんと静まり返っている。 「フェイン……ごめんなさい……私……」 彼女はあれからずっと謝り続けている。 「ごめんなさいじゃわからないだろう? ちゃんと最後まで言ってくれ。俺は君の話を最後まで聞くつもりでいるのだから」 俺達は噴水の前に立ち、彼女と向き合い、両腕を支えてやるとウィニエルは話を再開した。 「……私は何度も死のうとしたんですっ。……あなたがセレニスさんにそうしようとしたようにっ……」 彼女が涙を流しながら俺の方を見つめる。その瞳があまりにも哀しげで、 「……っ…………」 俺はその瞳に黙り込んでしまう。 …………。 彼女が俺と同じことをしようとしていた? だが、彼女はここに存在している。 それなら俺と同じじゃないか。 自分と同じように止めてくれたのだとしたら、別に詫びるようなことじゃない。 この時の俺はまだ彼女の真実の半分も知らなかった。
to be continued…