贖いの翼 第八話:アルカヤの地⑤ ウィニエルside

 私はミカエル様から降ろされて、地面に足を着いた。そしてミカエル様から手を放す。

 足元の柔らかい草の感触。少し強い日差しなのか目蓋を閉じていても明るく感じる。生暖かい湿り気のある風が私の髪を梳く。身体が自然に汗ばんでくる。


 暑い……。


 天使の時には感じたことがなかった感覚だ。

「今の季節は夏だ、ウィニエル。もう目を開けていいぞ」
「はい……」

 私は額に掻いた汗を拭いながら目を開けた。

「……ここは……?」

 目の前には緑の大地が広がっていた。私の膝丈よりやや高く生い茂るグリーンの野原。遠くにより濃い緑の森らしきものが見える。
 近くに民家は見当たらない。
 晴れ渡る空に強い日差し。太陽が照り付けて私から水分を奪い取ろうとしている。ここがどこかなんて全く検討もつかない。

 というよりも、ミカエル様は何でこんな所に降ろしたんだろう……。
 せめてどこかの街なら良かったのに。

 ミカエル様はちょっと意地悪な方だ。それとも試練を与えて下さったとか?

 そんなの要らないのに……。
 それとも、期待を裏切った私にささやかな仕返しですか。

 それが一番納得がいく。
 だとすると、次は……

「……俺が出来るのはここまでだ。天使は人間に直接働きかけられないんでな」

 ミカエル様は私の肩に手を置いて淋しく笑う。

「え……」

 やっぱり、置いていくんですね……。
 身重でも容赦ないですね、ミカエル様。

 でも、私負けませんから。

「……お別れですね、ウィニエル様」

 ローザが私の肩から飛び立って、ミカエル様の肩へと渡り腰を降ろした。その様子に私は何かんだ言っても意外と仲がいいのね、なんて思っていた。

「……ええ。ローザ、今までありがとう。ミカエル様も……ありがとうございました……」

 私はありったけの笑顔で二人に頭を下げる。

「いえ、こちらこそ。ウィニエル様と過ごせて良かったです」

 ローザも満面の笑みを浮かべていた。

「ああ、元気でな」

 ミカエル様が私の肩から手を放し、ローザと共に空へと浮かび上がる。

「ミカエル様もお元気で!!」

 私は二人を見上げて手を振った。

 あっさりとした別れだった。
 でも……これぐらいが丁度いいのかもしれない。
 泣かれるよりは。
 喧嘩別れよりは。

 二人の姿は瞬く間に消えてしまい、後には照り付ける太陽の光が私の体力を奪い始める。


「暑い……」


 私はとりあえず遠くに見えた森らしき場所を目指すことにした。
 まず、日陰に入りたい。それからのことは後だ。

 三十分程歩いて、やっと森の木々がはっきりと見えてくる。
 そして、


「……み、道……?」


 私の目の前に不自然に草が刈られた道が現れる。獣道ではない。
 幅は馬車が互いに対面交差できるほどで、舗装はされていないがそれは見るからに人為的に作られた道だった。
 その先は目指していた森へと続いている。このまま緑の上を歩き続けても森へは行けるけれど、道を歩いても距離的には変わらなそうだ。それに、歩き始めてから草が膝から下を何度となく引っ掻いて、私の足には擦り傷がたくさん出来ていた。
 痛いけれど、うだる暑さで痛いと構っていられる状態ではなく、足から流れた血が履物に滲んで歩き辛い。

「……ここを歩けば街に着くかも……それに、誰か通るかもしれないし……」

 私は道を歩くことにした。どちらへ向かったらいいかはわからない。ただ、闇雲に野原や森を彷徨うよりは、この道を歩いた方がましだと思ったのだ。

「……あつ……痛っ……」

 道を歩きながら額の汗を拭う。服が汗で肌にへばり付いて気持ち悪い。傷だらけの足に汗が触れて痛みを感じる。

「……大丈夫……?」

 私はお腹に手を当てて話しかけた。
 この子だけは絶対に守らなければならない。

「……アイリーンのストール、夏でも助かるわ……」

 私はアイリーンに貰った白いストールを頭から被って日除け代わりにしていた。暑いけれど、日除けには丁度いい。

「ここが砂漠じゃなくて良かった……」

 日差しは強く確かに暑いが、緑がある分熱くて湿った風もきまぐれに涼しく私の横を通り過ぎる。

「……でも……本当に暑い……喉……渇いたな……」

 近くに腰掛けるのに丁度いい岩を見つけ、腰を下ろした。

「…………あとどれくらい歩けばいいのかな……」

 私は自分の行く先と、自分が来た道の先を交互に見通す。


「……誰も居ない……」


 一体ここはどこなんだろう。
 天使としての能力を失った私にはここがどこだなんて未だに検討もつかない。

「……はぁ……」

 私は深く息を吐いて、立ち上がった。

「……頑張ろう……まだ……始まったばかりだもの」

 再び歩き出す。

 足の怪我は擦り傷が多かったが、深い傷ではないようで血もすでに止まっていた。
 けれど、足取りは重かった。
 それから十分後、私は身体の異変に気付く。

「……っ……痛っ……お腹っ……」

 誰も居ない道の真ん中で、私はお腹を抱えその場に蹲ってしまった。
 突然の激しい痛みが私の下腹部を襲う。刺す様な痛みが瞬時に全身を這い意識を混濁させていく。

 このまま倒れたら……。

 こんな誰も居ない道で倒れることなんて出来ない。
 この子だけは。

「……やっ……駄目っ……しっかり………………」

 私は自分の意識を奮い立たせるように拳を握り締めた。

「……うっ…………」

 目蓋が重い。目を開けていられない。
 私の身体が道に倒れ込み、乾いた砂が舞い上がる。


 ……私は意識を失ってしまった。


◇


 このまま……死んでしまうのかな……。
 ごめんね、赤ちゃん……。

 私は真っ暗闇の中に落ちて行った。深い闇の奥底へ身体が沈んでいくのがわかる。
 このままもう二度と光の中へは戻れないんだ。
 私は覚悟していた。

 けれど、闇を彷徨ってしばらくすると、その先に小さな白い光が見えてくる。

「……光……?」

 あまりに小さいその光はミカエル様ではない。もう私は天使ではないのだから、もう誰も助けてはくれないのだ。

 なら、その光は……?

『……ウィニエル……』

 光の方から声が聞える。光が近づいてくる。


 その声は……?


『ウィニエル……しっかりしろ!』


 もう一度。私を励ましてる。
 光はさっきよりもより近づいていた。

 どうして、私の名前を知っているの……?


『ウィニエル!!』


 小さな白の光が私を照らす。それは咄嗟で。

「……んん……」

 私は光が眩しくて手で目を覆った。

「……気が付いた……?」

 頭上で男の人の声がする。

 どこかで聞いたような……。

「……んん……え……?」

 私はベッドに寝かされていたのか身体を起こし、白い光の所為で中々開けられなくなった目蓋をゆっくりと開いた。

「……良かった。気が付いたみたいだな」

 目を開けた私を赤褐色の髪と金褐色の大きな瞳を備えた青年が覗いている。視界も思考も始めはぼやけていたが、すぐに光に慣れて、まず目がこの場所と、彼の輪郭をはっきりと認識した。
 それに続いて意識の方もはっきりとしてくる。
 見たことのある色彩鮮やかな部屋。テーブルの上には水の入ったガラスの水差しとグラス。前には椅子があって、私が寝ているベッドは……。


「……う、嘘……」


 目も頭も覚醒すると、私は瞳を大きく見開いて口を手で覆ってしまった。

 目の前に居る青年は、私の知ってる人に似てる。
 というか、本人!?


 ルディ、
 ルディエール・トライア・レグランス!?


「……そんな……」


 刹那私の手が震えた。
 私は呆然と目の前の青年を見つめる。


 まさか……ここは……。


「ここは……」

 声が口を突いて出て行く。

「ええと……君の名前聞いていい?」

 私の呆然とした姿に青年は屈託の無い笑顔を向け、私の手を取る。

「え……あ……」

 私は青年の温かい手に咄嗟に名前を言おうか躊躇った。

 ここはアルカヤではないかもしれないのだ。

 それなら、

 彼はルディではないかもしれない。
 彼がルディであるなら、彼が私に名前を聞くはずがない。

 でももしアルカヤなら、

 もしかしたら、彼は私に気付いていないのかもしれない。
 今の私は人間なのだから、翼の無い私に気付くはずが無い。

 どっちなのだろう……?

 そう瞬時に思ったけれど、次に青年が告げた言葉で後者であることがわかる。

「……ここはレグランス王国の首都ファンランの王宮だよ。俺は、ルディエールって言うんだ。君は?」

 青年……ルディはそう告げた。

 やっぱり……ここはアルカヤ……。

「え、ええと……」

 私はルディに名乗るべきか再び躊躇した。

 ルディが私に気付いていないなら、このまま、
 わからないままここから去った方がいいと思ったから。

「……ウィ……ウィニア……」

 私の口が勝手に喋っていた。
 人間になった途端簡単に嘘が吐けてしまう自分が少し恐い。

「……ウィニア? ……そっか……ひょっとしてって思ったんだけど……」

 ルディが笑顔を消して真顔で私の顔に近づき、その大きな瞳で見つめる。

「え……?」

 私はルディの瞳から目を離せず、真っ直ぐに向かい合った。

「……いや……知ってる人に似てるからさぁ……にしても似てるなぁ……名前まで似てる。でも翼が無いしなぁ……」

 ルディは私の手を放して立ち上がり、私の全身をまじまじと見る。

「…………」

 私は何も言えず、頬を指で軽く掻いた。

 少し罪悪感はある。
 でも、このまま何事も無いまま去ることができれば。

「まぁ、いいか。ところでウィニア。君は一体どうしてあんな場所に居たんだ? 俺が通りかからなかったら危ない所だったんだぜ?」

 ルディは近くの椅子に背もたれを抱くようにして跨り、私に向かって告げる。

「あっ……助けて下さってありがとうございました! 私、街に向かう途中で倒れてしまって……」

 私は足を伸ばしたまま頭を下げた。

「いや……そんなことはいいんだけどさ……今の季節あの場所を日中に一人で移動するなんてよっぽどのことがあったのかと思って……何かあったのか?」

 ルディは私を心配するように訊ねる。

「いえ別に……そこに降ろされたから……」

 私は無意識でそれに応えていた。

「え? 降ろされたって何?」

 ルディは目を丸くする。

「え? あっ……いえっ……何でもありません」

 私は両手を左右に激しく振るった。

「まさか……君は……」

 ルディが立ち上がって私の方へと近づく。

「え……」

 私はばれたのかと思って、息を飲んだ。

「……あんな場所で馬車から降ろされたのか!?」

 ルディが怒鳴る。
 彼は勘違いして、私は馬車から突然降ろされたということになったらしい。

「え……? あ……そ、そうなんです……」

 私は適当に相槌を打った。
 嘘は一つ吐くと次から次へと上塗りして行かねばならない。そのことに私は気付き始めていた。

「一体誰だ!? そんな酷いことをする奴は!!」

 ルディは怒りを露わにして拳を握り締める。

「あ……ええと……ミカ……」

 ルディの剣幕に“ミカエル様”と言いそうになったけれど、私は途中で口を濁した。
 きっとミカエル様はあそこにルディが通り掛かることを知っていて私をあの場所に降ろしたのだ。ルディに会うことで、ここがアルカヤだということを認識させるために。

「ミカ……何?」

 ルディはその先を訊こうとする。

「……いいえ、何でもないんです。私、一人で歩いて来たんです」

 私は首を横に振った。

to be continued…

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