――喉がカラカラだ。 しばらくの沈黙の後、俺は乾いた喉に出もしない唾を飲み込んでから、口を開いた。 「…………ウィニ……エル……?」 最近はもう口にしていなかった言葉。 心の中ではいつも呼んでいた。実際久しぶりに口にすると、胸が締め付けられるように痛む。 この痛みは何なんだろうか。 「……あ…………え……えっと……人違いでは……」 彼女の声だ。 ずっと聴きたいと思っていた彼女の声。 人違いなわけがない。三年二ヶ月経った今でもまだ、忘れてなどいない。 そもそも思い出にだって出来てもいない。 まるで、昨日別れたばかりのように、彼女はあの時のまま美しい。 「っ…………」 俺は首を横に振る。彼女は戸惑った顔で、俺と視線を合わせるのを止め、目線を地面に落とす。 何で人違いなんて言うんだ。 君は忘れたというのか。 あんなに、 あんなに互いを求め合ったのに。 心まで欲してはないにせよ、君は俺を求めてくれた。 俺は、忘れてなどいないのに。 以前よりも、君を……、 こんなにも君を。 君を強く想っているのに。 この感情が何なのかやっと解りかけてるのに、君は。 「…………ウィニエルっ!」 俺は堪らなくなって彼女を強く抱きしめる。 「…………」 でも、彼女は黙ったままだ。 「どうして、何も言ってくれない! 何で、名前を呼んでくれないんだ!」 俺は腕に力を込める。 「…………」 それでも、彼女は応えてくれなかった。 あの頃のように、俺の背に手を回して優しく抱き返してはくれなかった。 代わりにくれた返事は……。 「…………人違いですよ。旅の方」 俺を拒むように穏やかに微笑む。 ただ、その言葉と相反するように瞳に透明な雫が頬を伝う。 「……人違いなわけがないだろう? さっきの君の態度は明らかに俺を知ってる顔だった」 俺までも彼女につられて微笑んでしまう。 涙で、彼女の綺麗な顔が霞んでよく見えない。 彼女は以前と変わっていない……いや……、以前よりも強くなったのか、凛としている。 その彼女の瞳が俺の顔を覗き込んでいる。 白い小さな両手で俺の頬を包んで、彼女は自分の方へと引き寄せる。 「…………あなたには敵いませんね。フェイン……」 彼女……、ウィニエルが微笑んでいるのがやっとわかった。 「いつか、こうして会えるって……信じてたの……あなたに会えると信じていました……」 ウィニエルはそのまま背伸びをして、俺の唇に軽く触れる。 「ウィニエル。俺も会いたかった……ずっと……!」 俺は僅かに触れた彼女の唇がもどかしくて、汚れた手も構わずに彼女の透き通る白い頬を汚して、深く口付けを交わした。 人目も憚らず、俺達は互いの唇を貪る。 彼女の唇を割って、中へ。 「んんっ…………んはっ……」 時折、苦しいのか頬を赤く染め、ウィニエルは息苦しそうに酸素を欲したが、抵抗したりしなかった。 君はまだ、俺を想ってくれているのか? それとも懐かしさで、あの頃を思い出しただけか? ――どちらでもいい。 俺も淋しさを埋めたいだけなのかもしれない。 俺は三年二ヶ月分の想いの丈をぶつけるように、簡単には彼女の唇を離してはやらなかった。 ◇ ……しばらくして。 「……フェイン……元気でしたか?」 一頻りキスと抱擁をし終えると、俺とウィニエルは見つめ合った。 「……ああ…………いや俺は……」 横に首を軽く振るう。 小さくはにかんで「ああ、元気だった」と君を安心させる為に嘘を吐いて取り繕えばいいものを、何故だか出来なかった。 どうやら俺はウィニエルに嘘を吐けないらしい。 かと言って、君を責める気にもならない。 君と離れて最初の一年間の記憶はあまりないんだ。しばらくは雑務で忙しかったが、あとは何をやっていたのかまるで記憶が無い。 二年目もただ、毎日が平穏だった気がする。塔からあまり出たことはなかった。 三年目、アイリーンのお陰か、少しずつ外に出れるようになった。こうして、ギルドの仕事にも復帰して、遠出も出来るようになった。魔法の感覚も完全に戻りつつある。 それはきっと、君がいなくなった現実を受け入れることが出来るようになってきたからだと思う。 感情がやっと追いついて来たんだ。 残酷だが、時は傷を癒してくれるものなんだと、気付き始めている。 セレニスのことも、君のことも。 ただこうして、会ってまた俺は気付いてしまった。 ――俺は、きっと君のことを。 そして三年二ヶ月経った今でも、君は俺の全てを受け入れてくれると、思ってる。 俺は馬鹿だな。 「そうですか……でも、こうして生きていてくれて嬉しいです」 ウィニエルは複雑な顔で微笑んだ。 その微笑みは、初めて見る表情だった。 それはまるで、俺は過去だと言ってるようで。 なら、どう言えば良かったのだろうか。 俺はとてもじゃないが、元気ではなかった気がする。 それも、君がいなかったから。 だから、上手く応えられそうもない。 君がもし俺を過去としてるなら、俺はもう君に甘えることは出来ないんだな……。 「……君はどうだ?」 俺は自分の思考に蓋をして、彼女に訊ねた。 「…………私は元気でしたよ。色々と忙しくって」 彼女はほんの数秒、間をあけて答える。 「そうか……それは良かった」 「今も毎日忙しいんです」 「そうか……」 ウィニエル、君は相変わらず忙しい日々を送ってるんだな。 少しほっとした。 もう一つ、訊きたいことがあるんだ。 どうしても訊いておきたい大切なことだ。 「なぁ……ウィニエル、訊きたいことがあるんだが……」 俺が訊ねようとすると、 「はい……あ! もうこんな時間! 私もう帰らないと。じゃあ、フェイン」 突然、ウィニエルは思い出したように慌て始めた。 「帰るって……天界にか?」 俺は今にも走り出しそうな彼女の細腕を掴んで、訊ねた。 「……えっと……あ……本当に私もう行かなくちゃ。暗くなったら帰れなくなるから……」 ウィニエルは俺の問いに口を濁しながらよくわからないことを告げた。 暗くなったら帰れない? 翼を広げて帰るのだろう? いつ何時でも帰れるはずじゃないのか? そういえば、今翼を隠しているんだな。 何の為にこの街に? やはり、霧と関係しているのか? 「湖の霧と関係しているのか……?」 俺は訊ねる。本当に訊きたいことはこんなことじゃないが、今訊く必要がある気がする。 「え、どうしてその事を?」 彼女は目を丸くして俺を見る。 「……俺は湖の霧を晴らす為に派遣された。君がその霧の所為でここに居るなら、俺も手伝おう」 天使の仕事を手伝うのは天使の勇者である俺の務め。そう思って俺は告げたのだが、 「えっ!? あ、いや大丈夫ですよ! 霧は帰れば晴れますから」 ……ますます、わけがわからない。 「……とにかく、君は湖に行くのだろう?」 「……ええっとー……」 ウィニエルの目線が宙を泳いだ。恐らく、湖へ行く気だ。 一人では危険じゃないのか? それとも、新しい勇者が居るのか? 「……新しい勇者が居るのか」 「え? ……勇者……?」 俺の言葉にウィニエルは意味がわからないのか、首を横に傾げる。 俺の身体が朽ち果てるまで、俺は君の剣となり盾となろう。 それだけは、互いに想い合わずとも、決めているんだ。 ――だが、君はそれを望んでないのか? 「俺はもう、君の勇者になることは出来ないのか?」 「勇者って……そんな……昔のこと……」 「昔のこと……か……そうだな……俺が君の勇者だったのはもう三年以上前のことだったな……」 俺はどうやら……いや、やはり過去の人間らしい。 「あっ! そういうことじゃないんですっ! ……ごめんなさい! フェイン。私本当に帰らなくちゃ!」 ウィニエルは俺の手を剥がして、頭を下げる。 そして、走り出す。 だが、数メートル先でふと立ち止まり、俺の方へと向き直る。 「……フェイン! あなたはいつまでも私の大事な勇者です! それだけは忘れないで下さいね!」 夕日を背にウィニエルは最上の笑顔で優しく微笑んだ。 「ウィニエル! また会いたい!」 口が勝手に言葉を発していた。 「…………それは、出来ません。でも……もし、また……たら…………は……」 彼女は首を横に振りながら最後まで語り終える前に再び俺に背を向けて走って行ってしまった。 最後はよく聞き取れなかった。 ただ、“もう、会えない” そう聞こえた。 泣いていたような気がする。 俺は彼女の髪が夕日に溶けて艶やかに輝いていたことに目を奪われていた。 なぁ、ウィニエル。 俺は、 俺と君とはまだ繋がってるような気がする。 だって、君は言った。 『会えると信じていた』 俺も信じよう。 また、会える。 どっちにしたってこのままじゃ、踏ん切りがつかない。 だって、大切なことを訊いていないだろう? 『君は今、幸せなのか?』 俺達は過去に罪を犯したんだ。 罰を受けるのは俺だけであって欲しい。 俺は君の分の罰も背負うべきなんだ。 俺が君を忘れることは無いにしても、この想いが霞まないうちに、この身に傷を付けてくれ。 残酷でも、熱くても、痛くても、何でもいい。 それで全てを贖えるなら。 俺が生きている理由はもしかしたらそこにあるかもしれない。 君は最初で最後の俺の天使。 君が俺を想ってなくても、俺は君が。 俺はきっと君を、 君を愛してる――。
to be continued…
後書き
九話後書きで書いていた時期の設定はどうやら嘘のようです。
三年二ヶ月となりました。なんて中途半端な時期設定なんだか……。
当初は二年半後にフェインが気付いてアイリーンに問い正して探しに行くー……とかいう話だったんですけど、フェインにウィニエルを追って旅させるのも可哀想だなーと思って……でもやっぱり旅してたネ(汗)
でも当初の設定でいくと、フェインはウィニエルと会ってどうするつもりなのか、そこが迷ったところでした。
ウィニエルはフェインのこととなると何でも許してしまうので、以前のような関係に戻ることは避けられそうも無いし。
そうなると多分、ウィニエルは精神的に辛くなって死ぬ。というのも、フェインはまだ自分の気持ちに気付いていないので、それでは何の意味もないのです。
諦め掛けたその時、ふいに心に揺さぶりを掛け、気付かせるための第十話でした。
それと、時っていうものは移り変わるものなんだなーってことも書きたくて。
……でもなーんか微妙に伝えきれなかった感が否めない……。
どのみち、これを読みに来る方にフェイン×セレニスの方はいらっしゃらないと思いますけど、フェイン×セレニスの方にはごめんなさいですね(汗)
しばらくフェインサイドを書いていなかったので、贖いのフェインってどうだったっけ? と迷いました。
というか、まぁ、迷ったのはフェインを控えめな男にするか、自己中男にするかですね。
この期に及んで自分のことばっか主張させるのもなぁ~と思って、今回はウィニエルを尊重し、控えめな感じに。
というか、フェインはそのままで、ウィニエルが強くなっただけのような気がしなくもない。
次回は最終話ウィニエルサイドです。
二人の未来の行方は!?