前書き
フェインと再会したウィニエル。フェインは以前と変わらず優しかった……。
『今日は天気がいいから、ゆっくり買い物にでも行っておいで』 なんて、ミカエル様が仰ったから、私は珍しく一人で街まで出掛けた。 あ、ミカエル様はね、フィンが生まれた頃からよくいらっしゃってるの。理由はよくわからないけれど、どうせ暇つぶしか何かなんだわ。 でも、フィンとよく遊んでくれるので、感謝してる。初めてこの家に訪れた時は驚いた。 だって、もう会うことはないって思っていたから。 フィンが生まれて二月程経った頃、ローザと連れ立って突然訪問して来るんだもの。 私と同じ人間のように、普通にドアを叩いて。 私がフィンを抱いたままドアを開いて驚いていたらミカエル様はフィンを私から取り上げて、顔をくしゃくしゃにして、 『ぱぱでちゅよ~』 なんておっしゃったから、私は面食らってしまった。 ミカエル様ってそういう方でしたっけ? ……なんて。 不思議と、ミカエル様との再会は嫌じゃなかった。 沢山嫌な思いも、辛い思いもしたけど、ミカエル様は私を育ててくれた親のような存在。 いつでも守ってくれていたんだ。 こうして、遠く天界から様子を見に来てくれたんだ。 私の大切な親。 フィンを生んでから何だかそう思えるようになった。 昔のことはもう、遠い過去のこと。 知らない人ばかりの知らない土地の母子家庭。知り合いの訪問が何より嬉しい。 かつての勇者達もたまに来てくれる。でも、皆忙しいからそうは会えない。 私も忙しいけれど、合間、ふとした時に少し淋しさを感じていた。 でも、ミカエル様はそれから一月に一回は訊ねて来られる様になった。 時にはアイリーンと訪問が重なったりもして、ローザとは和やかに会話を楽しんでいたけれど、ミカエル様はアイリーンに私のことで散々文句を言われていたっけ。 ローザは笑っていたけれど、私は傍らでフィンを抱っこしながらあたふたしていた。ローザは真面目な子なのに、ミカエル様とはいつもそんな感じらしい。 “湖の女神”の噂が街の活性化の為に使われるようになってからというもの、知らない人が湖に頻繁に来るようになった。湖にはマナーの悪い旅人が残したゴミが散乱している。 私は毎日それを拾って湖が汚れないようにしていたけれど、量が増えるにつれて一人作業に限界を感じていた。 そこでミカエル様は霧を発生させて人々を近づかせないようにしてくれた。 そして、これは絶対誰にも言えないことだけれど、湖のある場所にお金を入れる場所が設けられていて、そこにお金を投げ込むと“幸せになれる”なんて噂をロクスが広めてしまった。 そもそもお金を投げ込む場所を設置したのはロクスなのだけど、 ……そのお金の一部がロクスの借金の返済に回ってるなんて口が裂けても言えない。 もちろん、お金の殆どは街や恵まれない子達の為に使っているけれど。 ミカエル様はそれを見て知っているのにロクスには何故だか甘くてお咎めはなかった。私は少しだけ罪悪感を感じながらも見て見ぬ振りをしていた。 だって、ロクスは今、とても真面目な聖職者。世界中を旅して傷ついた人々を救っていると聞いている。 そんな彼を数々の罪を犯した私にどうこう言う権利はないわ。時折旅の合間に私の家に寄ってくれて、以前と変わらない悪戯な笑顔をよく見せてくれるから、私はそれを見る度懐かしさを覚えて嬉しかった。 アイリーンは、 「ウィニエルは騙されてるんだよ。あいつは改心なんてしてないって」 と、私がロクスの成長を喜んでいたら苦笑いを浮かべていたっけ。 ◇ 「あら、ウィニエルさん。一人なんて珍しいわね。フィン君は?」 「あ、はい。知り合いの方が見ててくれてます」 「そう」 いつの間にか街まで歩いて来ていた私に、街の入口の土産物屋のおばさんが声を掛ける。 「それじゃ……」 私は挨拶もそこそこに街へと足を踏み入れた。 いつ来てもここは人で賑わっている。あの戦い以後に天竜を恐れ街から出た者達も戻り、街は以前の賑わいを取り戻しつつある。私はこの三年二ヶ月、日々元気になっていく街を見て過ごして来た。フェインが私にくれた最上の贈り物のフィンが生まれて。 私は幸せだった。 フィンが生まれてから直ぐは自分の時間を感じることはなかった。フィンと一緒に居ればそれだけで幸福感に満たされて、今だってそう。 ただ、フィンが眠った後、ふと一人起きてるとね。 こうしてふと一人で居るとね。 何とも言えない物淋しさを感じるの。 誰かに縋りたくなることもある。 でもそれは誰でもいいわけじゃなくて。 そんな時私の脳裏には彼が浮かぶ。 アイリーンは、フェインはまだ私を想ってくれている、なんて言うけれど、私達は互いに気持ちを言い合ったりしたことがない。アイリーンが何を言っても、本人の口から聞くまで気持ちなんてわからない。 もちろん、私はフェインをまだ愛してる。グリフィンのことを忘れたわけじゃないけれど、私はちゃんとフェインに愛していると、今ならはっきり言える。 でも、彼には愛する人が居る。 それは私じゃない。 きっとこの先もその愛は変わらない気がする。そんな彼に私の想いを押し付けるわけに行かない。 ……ううん。 そうじゃなくて、私は彼に愛しては貰えないことが辛くて逃げただけだ。 醜い嫉妬に負けて逃げただけ。 今もまだ、臆病なまま。三年二ヶ月経っても何も変わってない。 私は何をしていたんだろう? まだ、彼を愛してる。 いずれ彼とも出会うだろう。 でももしこの先彼と出会っても以前のようには……。 自分から別れを告げたのにまだ彼に頼ろうとする自分が嫌だった。 私が湖の女神だなんて噂が流れて消えて、もう今は誰が湖の女神なのかなんてきっと誰も知らない。 こうして街を歩いていても誰も気が付かない。 ――時は流れてく。 淋しくとも、辛くとも、否応なしに時は流れてく。 哀しくはない。 ただ少しそれに追いつけないから戸惑ってるだけ。 「……あ……いいお天気……」 私は立ち止まって不意に空を見上げる。深い青に白い雲がパンを象ってゆっくりと漂っている。パン屋さんにでも寄って帰ろうかな。なんて私はつい口元を緩めてしまう。 私は今幸せだわ。 だって、フィンが居るもの。 多少の淋しさは仕方ない、私が選んだ道だもの。 それ以上に何を望むというの? 天使じゃなくなったら貪欲になるの? 大罪を平気で犯したら罰が当たるわ。 ね? ウィニエル? 「…………ふぅ」 私は小さく息を吐いて、再び歩き出した。 でも、どうしてこんなにも彼を思い出すのだろうか。 こんなに彼のことを思い出すなんて、やっぱりこんな風に一人で歩いているから? それとも、これは何かの前触れ? 彼が近い……とか? まさか。 ……でも、いつかあなたとは会える気がする。私はそう信じてるの。 そんなことを思いながら私はブラブラと街を歩いていた。 なんとはなしに、人混みの合間を縫って店のショーウィンドウに目を移す。向かいに私の方を見ている人が居る。背の高い男の人。銀の髪の……どこかで見たことがある気がする。 私は彼の視線に目を合わせないまま歩き続け、記憶を辿る。 ――どこで会ったのかしら? 思い出せなくても構わなかった。彼のことを一瞬でも逸らせるなら何でも良かった。 フィンのことを考えるでも、ローザやアイリーンのことを考えるでも、考えたいことには不自由しないのに、どうしても彼のことを考えてしまう。 しかも、 今日、 今、 急に。 私は今、彼にどうしようもなく会いたいのかもしれない。 「……えっ?」 私はその旅人とすれ違い様、腕を強く引かれた。 直ぐにわかった。 この感触を私は知ってる。 「……ウィニ……エル……?」 街のざわめきが一瞬にして消え、私の耳の奥に低く響く心地良いその音色。 その音色も、やはり知ってる。 ……フェイン。 ずっと、ずっと聞きたかったあなたの声。 少したどたどしくてもちゃんと私の耳には届いてる。 その声だけで私は胸を締め付けられた。 「……あ…………え……えっと……人違いでは……」 私をただの人違いだと思って貰えたら、どんなに楽なんだろう。 そう思ったら口が勝手に告げていた。 「っ…………」 でも、フェインは黙ったまま首を振った。 間違うわけがないって、私を見つめる目が言ってる。 そんな目を見ていたくなくて私は視線を地面に落とした。 少しの間、互いの間に乾いた風だけが吹き抜けて。 「…………ウィニエルっ!」 フェインの腕が私を強く抱きすくめる。 「…………」 私は何も言わなかった。抱き返そうともしなかった。 「どうして、何も言ってくれない! 何で、名前を呼んでくれないんだ!」 フェインの腕に力が込もる。 「…………」 以前と変わらない強く温かな腕が私をぐらつかせる。 手が一瞬でも彼の背に触れようとしたけれど、何とかそれを制止する。 抱き返したりはしない。 私はもう、昔の私じゃない。 昔の私じゃないって証明したい。 「…………人違いですよ。旅の方」 私は彼を見上げて穏やかに微笑んで見せた。 余裕なんてない。 ただの強がり。 涙が頬を勝手に伝って流れていく。 「……人違いなわけがないだろう? さっきの君の態度は明らかに俺を知ってる顔だった」 フェインも私に釣られて微笑む。 彼の頬にも涙が伝う。 涙を零すあなたも素敵ね、フェイン。 私は両手で彼の頬を包んで自分の方へと引き寄せた。
to be continued…