早く目を覚ましてくれないか。 目を覚まして、自分はウィニエルじゃないって言ってくれないか? いや、間違うはずがない。 俺が、 君を見間違うはずがない。 でも、背中に翼がないから。 ひょっとしたら、他人の空似かもしれないだろう? 他人の空似。 そうだったらどんなに良かったか。 「はぁ……」 静かな部屋に落胆したため息の音だけが響いた。 ◇ 「……んん……」 しばらくすると様子を見ていた俺に、彼女が眩しそうに手で目を覆って擦る仕草をする。 「……気が付いた……?」 俺は彼女を覗き込むようにして声を掛けた。 「……んん……え……?」 彼女はベッドから身体を起こし、日の光の所為で中々開けられなくなった目蓋をゆっくりと開いていく。 まだ意識ははっきりしていないようで、焦点の合わない瞳で俺をぼんやりと見つめた。 「……良かった。気が付いたみたいだな」 目を開くと、やっぱりそうだって、思った。 こんなに澄んだ翠玉の瞳を持つ人を、俺は他に見たことがない。 彼女の深く美しい翠玉に俺が小さく映っている。 「……う、嘘……」 焦点が次第に合い、彼女は俺のことをはっきりと認識すると、緑の瞳を大きく見開いて口を手で覆ってしまった。 何で、そんなに驚いているんだろうか。 そう思っていたら、 今度は、 「……そんな……」 彼女が愕然と俺を見つめたまま震え出す。 顔色が青ざめ、瞳に涙が浮かぶ。 その表情でわかったことがある。 ――この再会は不遇。 そんなに俺に会いたくなかった? 過去に君に嫌がられるようなことをした覚えはない。 なら、別の理由が? 不遇の再会に翼の無い君は、どうしてあの場所に居た? “どうして翼が無いんだ?” そう言ってやりたかったけれど、俺には何も言えなかった。 「ここは……」 自分を見つめている俺に、彼女が辺りを見回してここがどこだかわからない振りをする。 ここは、俺と君が初めて出会った部屋。 知ってるよな。君も。 忘れたりはしてないよな。 でも、知らない振りをしたいんだろう? なぁ、ウィニエル。 彼女が何も知らない顔で、周りを見渡しながらそう告げるから、 俺は、 「ええと……君の名前聞いていい?」 もう、既に知っている彼女の名前を再び訊ねていた。 今作れる最大限の笑顔でそう言うしかなかった。 俺とウィニエル。 俺と君は今初めて出会ったんだ。 君は俺との再会を喜んではいない。 だから初めて出会ったということにしたいんだろうか? それなら俺はどう接してあげたらいいんだろう。 「え……あ……」 俺が彼女の手を取って握ると、ウィニエルは視線を床に落とした。 あの頃に比べて、彼女の手ははるかに温かい。 まるで、人間のようだ。 そういえば、さっき疑問も持たなかったけど、熱があったとはいえ、彼女の体温は異常に熱かった。 天使の体温は暑さや寒さに左右されないって昔言ってた気がする。 俺の記憶が確かなら、寒い地方でも服装は変わらず、鳥肌一つ立てていなかった。 手を握ったことや軽い抱擁を交わしたこともあったけど、冷たくも温かくもなかったっけ。 それが日焼けと、熱? 地上に居たということは、人間になったということなんだろうか。 それなら、背に翼が無い説明がつく。 けれど、あの場所に居たのはどうして? 何度も考えを巡らせて、首も何度か横に振ってはみたけれど、 ……それだけはやっぱりわからない。 「……ここはレグランス王国の首都ファンランの王宮だよ。俺は、ルディエールって言うんだ。君は?」 俺はとりあえず彼女に合わせるように無理に作った愛想笑いで告げる。 「え、ええと……」 彼女の瞳が刹那動揺を見せていた。俺に名前を言うのを躊躇っているようだった。 素直に名乗りたくない何かがあるのかもしれない。 再会を喜んでいない理由もそこにある気がする。 「……ウィ……ウィニア……」 少し間を空けて、彼女の口から小さくそう聞こえると、胸が締め付けられる。 天使の彼女が初めて嘘を吐いた。 名前を偽りたいのはどうして? 俺は、君を傷つけたりしないし、君が何を言っても受け止めてあげられるのにな。 そんなに俺を信頼出来ない? 共に幾度となく、戦った仲間なのに。 胸が痛かった。 あの頃のように俺を頼りにしてくれないことが、……苦しかった。 「……ウィニア? ……そっか……ひょっとしてって思ったんだけど……」 俺はじっと彼女の瞳を見つめる。 「え……?」 それでも、彼女は俺と目を合わせたまま知らない振りをする。 その顔はあんまり見たくないな。 淋しくなる。 君は嘘を吐けるような人じゃなかったのに、と言ってしまいそうになる。 まさか、記憶喪失とか? まさか。 そんなはずはない。 「……いや……知ってる人に似てるからさぁ……にしても似てるなぁ……名前まで似てる。でも翼が無いしなぁ……」 俺はウィニエルを窺う。 もし、彼女が記憶喪失なら、俺を知らないのは本当かもしれない。 でも、それならわざわざ名前を言うことはないし、偽ることもないだろうに。 そう考えていたら、 「…………」 彼女は黙ったまま目だけ泳がせ、気まずそうに人差し指で頬を軽く掻いた。 記憶喪失なんかじゃない。 やっぱり彼女は俺と会うのを初めてとしたいんだ。 何故かはわからないけれど。 俺は彼女に嫌われてはいないと思う。 それなら、 …………、 それでも、いいか……。 君の吐く最初の嘘に、俺は最後まで付き合うよ。 君が本当のことを言ってくれるその時まで。 今、そう決めた。 彼女が真実を告げるまで、待とう、と。 この先、つい我慢出来ず、口を吐いて出てしまう言葉もあるかもしれない。 けれど、出来るだけ核心は突かないように。 試したいんだ。 君がどこまで嘘を突き通せるのか。 俺が我慢する分、君にも試練は与えたい。 それは嘘を吐いたことに対する俺のささやかな怒りと、エゴによるものだけど。 「まぁ、いいか。ところでウィニア。君は一体どうしてあんな場所に居たんだ? 俺が通りかからなかったら危ない所だったんだぜ?」 自分の望んでいる真実は得られないとわかっていたけれど、俺は彼女に訊ねていた。 「あっ……助けて下さってありがとうございました! 私、街に向かう途中で倒れてしまって……」 そして案の定、彼女は頭を深々と下げて、真実は語らず話題を変えようとする。 嘘を一つ吐いたんだ。 俺はその嘘に付き合うよ。 真実が言えないなら、その先も扱い慣れない下手な嘘で俺を納得させて欲しい。 「いや……そんなことはいいんだけどさ……今の季節あの場所を日中に一人で移動するなんてよっぽどのことがあったのかと思って……何かあったのか?」 俺はわざと話題を戻す。 すると、 「いえ別に……そこに降ろされたから……」 彼女が以前のように素直に返答した。 ふっと気が緩んだのかもしれない、二度訊かれると咄嗟に嘘は用意出来ないみたいだった。 「え? 降ろされたって何?」 そして、俺は彼女のその言葉に目を丸くしていた。 降ろされたって、どういうことだ? 俺が首を傾げると、 「え? あっ……いえっ……何でもありません」 刹那、はっとしたように彼女は両手を左右に激しく振るって無理やり笑ってみせた。 それからしばらく二人で話をしたけれど、彼女は真実を告げてはくれなかった。 そして、 その会話の中でなんとなくだけど、わかったことがある。 彼女は何かを恐がっている。 ……ウィニエル、君は何かに怯えている。 俺はその怯える理由を解き明かすことができるだろうか。 君の支えになることはできないだろうか? 俺は、 無理して笑顔を作るウィニエルに合わせるように、努めて笑顔で接しながら、そんなことを考えていた。 ◇ 『しばらくここに居たらいいよ』 俺は彼女を王宮に留めることにした。 俺がそう告げると、彼女は困ったような顔をしていたけれど、身動きの取れない現実を受け入れたのか素直に従ってくれた。 次の日の朝、俺は早く起きて彼女を訪ねようとしていた。 日がぼんやりと昇り始めた薄暗い時刻だった。王宮内は静まり返り、鳥達が起きようか迷っている頃だろう。 こんな時刻に訪ねるのはどうかしてると思う。 でも、俺にはあまり時間がなくて。 日が昇ったら目まぐるしく忙しい一日が始まる。そうしたら、ウィニエルと話をする時間なんて夜中しかないだろう。 彼女の体調を考えたら夜中に訪問するのはいけない気がする。 それなら休みの日に会いに行けばいい、そう思ったんだけど、 ただ、その休みが俺には問題で。 俺の休みは昨日、公務帰りの半日あった。それも会議と雑務で消えた。 国王に休みなんてあってないようなものだ。 丸一日休める日が来るまであと何年も掛かるだろう。 自分で選んだ道だから、苦はない。充実感もある。 けど、彼女が王宮に居る。 けど、彼女は身動きが取れず、会いには来れない。 最も、動けても俺に会いには来ない気がするけど。 俺の大切な人が傍に居るのに会えないなんて、こんなもどかしさ一体どうしたらいいんだ? そう思ったら、彼女の居る部屋へ向けて足が勝手に動いていた。 朝と言えど、日も出ていないこんな時間に訪ねるのはマナー違反だってことは重々承知している。 でも、ここまで歩いてきたのは無意識だった。 いつもは誰かに起こしてもらわないと起きれないのに、どうしてだろうか。 自分でも驚いている。 眠るのは大好きなんだけど、それより大好きな彼女に会えるなら俺はいくらでも早起きが出来るようだ。 実際は、昨日あまり寝付けなくて今まで少し微睡んだだけなんだけれど。 「……ん?」 薄暗がりの廊下の、ウィニエルの居る部屋の近くで人の気配がする。 よく目を凝らして見ると、それは彼女本人だった。 彼女は窓から外の景色を呆然と立ち尽くし、俺が近づいて来ていることにも気付かないまま、外を見つめている。 彼女の視線の先には王宮の庭と、これから昇る日が出てくる薄暗がりの空。どこか一点を見ているわけではなさそうだ。 彼女は何を想っているんだろうか。 お腹の子の父親のことでも考えているんだろうか? 何故、相手は君の傍にいない? そのことは、直感的に決して彼女に訊いてはいけない気がした。 「……ウィニア……早いね、どうしたんだ?」 俺は彼女に声を掛けてみた。 「…………。……あ、はい。ルディ、おはようございます」 彼女は少し間を置くと、やっと俺に気が付き、挨拶を返してくれた。 彼女にはあの頃のように『ルディ』と呼ばせることにしたんだ。サヴィアはきちんと『ルディエール王』と呼ばせた方がいいと言っていたけれど、「ルディエール王」なんて彼女に呼ばれるのは距離を作るような気がして嫌だった。 彼女が今人間であっても、俺と彼女の関係は昔のまま変わらない。 少なくとも、俺はそう思ってる。 それから先に進めたなら、もっといいって思ってる。 「ああ、ウィニアおはよう。足、歩いて大丈夫か?」 「ええ、少しなら」 日が少し昇り始めたのか、空が薄紫色に変わると、彼女の笑顔がはっきりと見えてきた。 あの頃も可愛かったけれど、朝日の当たる彼女の笑顔は今も変わらず綺麗だ。
to be continued…