贖いの翼 番外編5:誘惑② ロクスside

「あいつとはどういう関係なんだ?」
「え? 関係ですか?」

 まさか、恋人?
 君はその身に宿した子の父親を愛していたんだろう?

 今はどうか知らないが。

 もしくは、赤い髪の男はただの戦友で、今、そいつと一緒に居るのか?

「えっと…… 元勇者で、債権者?」

 彼女は思いも寄らない言葉を口にした。

 債権者?
 それは一体どういう……?

 訊き返そうとすると、

「ロクス、ごめんなさい。もう、帰ってもいいですか?」
「え?」

 僕が返事をした直後、


 ぐぅ。


 と妙な音が彼女から聞こえる。

「あ……」
「ん? 今の音は……」

「あはは……お腹、鳴っちゃいました」

 僕は小首を傾げると、彼女は気まずそうに笑ってから、可愛く舌をペロリと出した。

「…………」

 そういえば今は昼時だった。
 彼女はお腹の音が僕に聞こえて恥ずかしくて舌を出したのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。

「……人間になってからというもの、お腹が減ってお腹が減って。天使の時は特に空腹感なんてなかったんですけど……。不思議ですね」

 自分の腹部を半ば関心したように見つめていた。

 そうか、彼女は元天使。
 天使は何かを食べたり飲んだりしなくても良かったんだ。勿論、食べることは出来たが、食べなくても済んだ。
 だが人間になってからはそうも行かない。

 人間は食べなければ生きてはいけない。

 まして、彼女は妊娠している。
 その子の分も食べなければならない。

「昼、まだなのか」
「ええ、これから帰って作ろうと思って。ロクスはもう済んだんですか?」

「……いや、まだ」

「あ、じゃあ、家に来ますか? 大したおもてなしは出来ませんけど、お昼一緒に食べませんか?」

 彼女の一言は願ってもいない言葉で、僕は二つ返事で彼女の家へと向かうことにした。
 お腹の子の父親が居るかもしれないであろう、家へ、

 僕が行ってもいいのだろうか?
 あいつが居たらきっと、僕は不愉快な思いをするに決まっているのに。

 そんな考えが頭を過ぎったが、ここで別れたら彼女ともう会えなくなるような気がして。


 僕はまだ、彼女と歩いていたかったんだ。


◇


 彼女の家へと向かう途中、

「持つよ」
「え? あ、大丈夫ですよ」

「いいから」

 僕は彼女の荷物を強引に奪って、彼女の隣を歩く。彼女が「すみません」と軽く会釈した。

 二人の歩く様子は、道行く人々の目にどう映っているんだろう。
 ごく、普通の若夫婦に見えるだろうか。

 もう以前の天使と勇者の関係でなくなった僕達。
 彼女にとって恋人でも何でも無い僕が、こうして再び並んで歩くことになるなんて思ってもみなかったな。

 彼女の妊娠は引っ掛かる所だけど、
 こんな風に歩くのは悪くない。


「近くに住んでいるのか?」
「ええ、街から出て少し歩いた所です」


◇


 ――少し歩いた所だなんてとんでもなかった。


 街を出て、三十分程歩いた場所に、ドライハウプ湖がある。
 その湖畔に彼女の家があった。

「ここです、さ、どうぞ」

 彼女がドアの鍵を開け、僕を中へと誘う。
 僕は軽く会釈をしてから誘われるままに、中へ。

 外観は二階建ての白い壁に、茶色の瓦屋根、こじんまりとした小さな洋館だ。
 まだ建てて間もないのか、上半分にガラス窓の付きの木製のドアを開けて中に入ると、温かみのある淡黄色の壁紙の部屋に、木の香りが残っている。

「邪魔するよ」
「あ、荷物ありがとうございました。そちらのソファにでも座っていて下さい」

 彼女は僕から荷物を受け取ると、ソファに座るよう促した。

 足を踏み入れて先ず目に入るのは、リビング。一階は一間しかないようだ。中央に廃材を利用したのか、何とも質素な焦げ茶の木製の四人掛けテーブルがあり、左手奥に彼女らしいセンスの壁紙に合わせた淡い黄色のソファ。右手に台所。左側に煉瓦作りの竈、右側流しの上に備え付けられた食器棚がある。二階は玄関を入って直ぐの右手に階段があった。洗面所は、リビングダイビングの中央奥らしい。

「今、ごはん作りますから」

 と、彼女は荷物をテーブルの上に置いて、中から紫の果汁が入ったビンを取り出し、食器棚から透明な筒状のグラスを出して、そこに果汁を注いだ。

「お酒ではありませんけど、どうぞ」

 彼女が紫の果汁が入ったグラスをソファに座る僕に差し出す。

「何だ、酒じゃないのか」
「ここの果汁はとても美味しいんですよ」

 僕の放言に彼女はいとも簡単に笑顔であしらった。

 グラスを受け取り、口に含んでみれば、まるで今搾ったばかりのように酸味も甘みも程よい、濃くて深い葡萄の味がした。その間に彼女はフリルのついた真っ白なエプロンを着けて、僕に背を向けて何やら調理し始めている。

「……そういえば、ウィニエルは今、一人なのか? ……あいつは……?」

 僕は彼女の背に問い掛けていた。

「…………」

 だが僕の言葉に彼女は振り返りもせず、答えもしてくれなかった。


「ふぅん。一人なのか」


 僕はグラスに入った果汁を一気に飲み干して、立ち上がる。


「……、ええ」


 ほんの少し間をあけてから彼女は小さく返事をした。その声は淋しさを含んでいたけれど、後悔や迷いの無い意志の強さみたいなものを感じた。


 一人。


 一人で、子供を産み、育てようというのか。
 ついこの間、人間になったばかりで?


 全く、大した女だよ、君は。
 頑固者と言えばそうだとも言えるだろう。


 一人。


 今、一人なら、僕にもチャンスはあるだろうか。

 僕は、これからの君を見てみたい気がする。

「ロクス、な、何ですか?」

 彼女が僕を見上げた。

「いや、何を作ってるのかと思って」

 気が付いたら、僕は空になったグラスを手にしたまま、彼女の肩を後ろから抱きしめていた。

「……危ないですよ」
「え? うわっ!?」

 彼女が右手を上げ、それを見た僕は彼女から腕を放した。
 彼女の手には包丁が握られていて、外からの光が刃先を照らし反射する。その刃先は彼女を抱きしめる僕の方へと向いていた。

 あと数センチ、顔を近づけていたら鼻が裂かれる所だった。

「き、君は僕を殺す気か!?」
「殺しませんよ。ただ、危ないですよって言っただけで」

 ウィニエルは笑っていたけれど、瞳の奥が笑っていない気がした。

 瞬時、彼女を怒らせると恐い。
 そう思った。

 けど、彼女は怒っていたわけじゃなくて、

「う~ん…… はっ!」
「お、おい?」

「よっ! たぁっ!」

 彼女の掛け声と共に包丁が振り下ろされ、まな板の上の野菜達が切られていった。野菜が切られていく度に木製のまな板が金属を勢い良く弾いて、軽快な音を鳴らす。

「……な、何を作るんだ?」

「え? あ、パスタを作ろうかと思いまして」

「そ、そうか」

 僕は彼女から離れソファに戻り、見守ることにした。
 尚も、気合を入れるかのように「よっ! えいっ!」と、声が聞こえる。
 妙な掛け声が気になるが邪魔しない方が良さそうだ。

 というより身のためのような気がした。

 そして、
 野菜を切り終えたその後も、「あ、違った、こっちが先ね。えいっ!」


 掛け声は続いていた。


 しばらくして、


「味は保障できませんけど」

 やっと僕の方へと振り向いた彼女は、作りたてのパスタをテーブルへと置いた。

「さ、座って下さい」

 彼女はそう言いながらまた僕に背を向け、調理が済んだ料理を数回に分けてテーブルへと置いた。

「あ、ああ……」

 僕は料理の置かれたテーブルへと向かい、椅子に腰を掛ける。

 テーブルの上にはパスタだけでなく、サラダやスープまであった。

「パンも食べますか?」

 彼女は買い物篭から長くて硬そうなパンをナイフで手際よく切ると、それを小皿に並べた。

「……何か本格的じゃないか?」
「ふふっ。そうですか?」

 ウィニエルは何故か嬉しそうに微笑んで、僕の向かいに座る。

 パスタセットとでも言うのか、それぞれの料理が綺麗に盛られている。
 グリーンの野菜サラダは、小鉢に入れられ、水洗いをして切っただけだというのに、採れ立てのなのか水滴を弾いて新鮮だと主張している。スープは僕の両手で包むより少し小さめのスープ用のマグカップに入れられていた。ベーコンや角切りの人参、たまねぎ、コーン等が入っているスープは透明な黄褐色で温かく、一口含むと、スパイスが効いて食欲がそそられる。
 そして、メインの赤いソースのパスタは湯気をたてて、トマトの酸の香りなのか、僕の鼻腔をくすぐった。

 とても、さっきの妙な掛け声から出来たとは思えない料理の数々。

「…………」

「? どうかしましたか?」

 僕が黙り込んで関心していると、彼女は首を傾げ、フォークを僕に渡した。

「いや……大丈夫かと思って」

 僕はフォークを持ちながら手を動かせずにいた。

 とりあえず、スープは美味かった。
 だが、あとは?

 ウィニエルを信用してないわけじゃあないが、天使が料理を作るなんてのは聞いた事が無い。
 これが初めて人の為に作る料理なら、僕の胃は大丈夫だろうか?

 いや、まてよ。
 彼女の料理を初めて食べることが出来る?


 これは、


 名誉…… じゃないか?


 しかし、一抹の不安が僕の脳裏を過ぎる。
 彼女が料理出来たなんて話、やはり、聞いたことがない。


 ……食べてもいいものか。


 しかし、目の前の料理達からは良い匂いしかしてこないし……。

 僕の胃よ、準備はいいか?
 今からこの料理を食べるぞ?

「あはは。お口に合うかはわかりませんけど、多分大丈夫かと」

 僕の失礼な言葉に、ウィニエルはやっぱり楽しそうに答えた。

「多分?」
「ええ、このメニューだけは沢山練習しましたから。アイリーンからもOKサインが出てますし」

「ふーん」

 アイリーン?
 アイリーンとは、もう再会していたのか。


 なら……あいつとは?


「あいつ……」

 と言い掛けてやめた。

 あいつのことなんざ、僕には関係のないことだ。彼女だって、思い出したら辛いだけだろう。
 それにもう、新しい未来を歩み始めているんだから、もういいよな。
 僕が気にすることは無い。

 ん?

 あいつと言えばもう一人居たな。

「……あ、意外に美味い」
「でしょう!? でも、上手く出来るのはこれだけなんですけどね」

 考え事をしながら、僕はいつの間にか料理を口に運んでいた。スープもサラダも、パスタもそれぞれに美味い。これなら店を出しても申し分ない。
 このメニューがこれだけ上手く出来るなら、多分他も上手いんじゃないか? と思える程だ。

 ウィニエルが料理が出来るなんて知らなかった。

「君が料理出来るなんて知らなかったな」

 そう言いながら僕は料理を口に運ぶ。
 料理の美味さに食が進み、歯が食物を絡んで噛み合い、喉が忙しく動いた。

「良かった。お口に合ったみたいで」

 彼女は笑顔で告げ、「いただきます」と小さく手を合わせてから、器用にフォークにパスタを絡めて口に運ぶ。

「他には何が作れるんだ?」
「うーん……そうですね。今、勉強中なので…… あ、このメニューは十回程練習したんですよ」

「へ、へ~……」

 僕が乾いた笑いを浮かべて応えると、ウィニエルは笑顔のまま答えて再び料理を口に運んだ。

to be continued…

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