贖いの翼・番外編5:誘惑③ ロクスside

 何がそんなに楽しいんだろうか。
 さっきから僕はかなり失礼なことばかり言っているはずなのに。
 怒っていないのか?

 そういえば、昔から彼女は時々読めない所があったな。
 挑発には絶対乗ってこないのに、ふとした時に怒り出したり、泣き出したり。笑い出したり。

 変わってると思った。

 行動は規則正しいのに、どこか読み辛くて、捉えどころがないというか。
 それがかえって気になって。

 今がそれの一つだ。

 何で楽しそうなんだよ。

「やっぱり、誰かと食べる食事って楽しいですよね」

 僕の疑問に彼女は心を読んだかのように答え、尚も微笑み続ける。

「あ、ああ……」

 僕は彼女に合わせるように口元をはにかませた。

 ああ、そうか。

 彼女はやっぱり、淋しいのだ。
 一人での食事より、二人で食べた方が楽しいし、美味い。

 一人での食事。

 僕は旅をしているからそれが当たり前だと思っているし、無理に誰かと食事をしたいとも思わない。
 淋しさも特に感じてはいないが、気心の知れた者と食事をするのは同じメニューでもいつもより美味く感じるものだ。
 そんなこと、僕にだってわかる。

 けど、彼女はこの家で一人で食事をしている。
 毎日、自分の分だけを調理して。

 恐らく一人で居る時は淋しさをそんなに感じても居ないだろう。
 だが、こうして相手が居るとやはり嬉しいのかもしれない。
 だからといって僕にどうして欲しいわけでもないのだろうが、楽しそうに答える彼女の笑顔の内に宿る淋しさを、僕は少し読み取れたような気がした。

 ウィニエルが望むなら僕が傍に居てやるのに。
 そうは思っても、そんなこと口にはとても出せそうにない。

 彼女のことは好きだ。
 他の男の存在を知っても、好きなことに変わりは無かった。

 ただ、

 僕にはまだ、彼女の腹の子を受け入れられるような器がない。
 以前はまだ、彼女の身体に変化が無かったから、何とか誤魔化せていたんだ。

 さっき、偶然会うまでは、自分の気持ちを誤魔化せていた。

 だが、今の僕は明らかに動揺している。
 軽々しく、好きだなんて言えはしない。

 あの男もそうなんじゃないのか?
 赤い髪の男。


 あいつは一体……。


「あ……そういえば、さっきのあいつ……債権者って?」

 僕は思い出したように彼女に訊ねていた。ここに来る前に、彼女はあいつが債権者だと言っていた。

 一体どういうことなんだ?

「はい、お金をお借りしてるんです」

 ウィニエルが向かい合った僕に素直に答えた。
 その態度がさっきはただ腹が減っていただけで、答えたくなかったわけじゃないとわかり、僕は安心した。

「その話、詳しく聞かせてくれないか?」

 そして、気付いたら訊き返していた。

「えっと……私、この家を建ててもらったんですけど、その支払いと、当面の生活費を彼に借りていて。この子が生まれてから少しずつ返済することになっているんです」

 僕の問いに彼女は恥ずかしいのか、上目遣いに僕を見て、頬を軽く指先で掻きながらはにかんで、告げた。

「……そうか、じゃあ……僕と同じだな」
「え?」

「僕も借金がある」

 僕は彼女との共通点を見つけたことが嬉しくて、つい、顔を綻ばせた。
 だが、次の瞬間、

「え!? また借金したんですか!?」
「違うっ! 前のだ!!」

 僕からぽつりと出た言葉に、彼女がそんなことを言うから、僕は慌てて訂正をした。
 今は以前のような悪さはしていない。借金だって、ちゃんと返済している。

 自分の犯した過ちは自分で責任を取らなければならない。
 その責任が果たされるまで、聖都には帰らないって、決めてるんだ。


 “全て返し終えたら帰る”


 そんな物質的で単純なものじゃなくて、

 自分に全ての責任が負えるような心持ちが出来るようになったら、戻るのかもしれない。

 今はまだ、それを探してる途中なんだ。

 僕が全てを受け入れられるようになれるか。
 教皇に本当にふさわしいのか。


 まだ、受け入れられない。


 目の前の君の事実、現実を。


「……そうですか。ロクスは立派になりましたね」

 ウィニエルが天使の笑顔を僕に向けると、いつの間に食事を終えたのか皿を持って立ち上がった。
 そして、僕に背を向け、すぐ傍の流し台に皿を置いて、今度はお湯を沸かし始めた。

 今の微笑み、なんて微笑みだろうか。
 春の温かい陽射しにも似た、僕の好きな彼女の笑顔だ。

 彼女の背に目をやると、純白のエプロンのフリルが交差して掛けられ、腰元にリボンが結んである。
 翼はもうないのに、そのフリルが翼に見えた気がした。


「……ウィニエル……」


 翼などなくても、やはり、彼女は天使なのだと思った。
 優しい彼女の微笑みが、勇者としての僕のその後を見届けて、それに安心してくれたような気がしたんだ。


 それは、慈しみの微笑み。

 彼女は僕に恋はしなかったけど、僕を想ってはいてくれていた。


「今、コーヒーを淹れますね」

 ウィニエルが頭上にある食器棚の扉を開ける。

「ああ、すまない」

 僕は彼女の背を見つめていた。


 彼女は僕を少なからずも想ってはいてくれた。


 それなら、
 僕に全く、脈がないわけでもないとは思わないか?


 諦めるわけには行かないんだ。
 往生際が悪いのは今に始まったことじゃない。

「えっと……こっちの方に確かコーヒーカップが……」

 ウィニエルの踵が床を離れ、彼女は爪先立ちでカップを探し始めた。食器棚の端にカップがあるのか、お腹が流し台に当たって、思うように手が届かないらしい。

「お、おい、ウィニエル大丈夫か?」

 僕は覚束ない彼女の足元を見て思わず立ち上がった。

「え? ええ…… あっ!?」
「ウィニエル!!」

 僕の声に振り向いた拍子、彼女はバランスを崩して、その身体が床へと落下してゆく。
 僕は咄嗟に手を伸ばしていた。
 床に触れようとする彼女の肩に僕の腕が滑り込む。


「君は馬鹿か!? 自分が今どんな身体なのかわかってるのか!?」


 気が付いたら彼女を怒鳴りつけていた。

 床に落ちる既の所で腕に彼女を受け止めたはいいが、僕の腕は急な圧迫を加えられた所為で痺れを感じ始めていた。
 僕は腕自慢タイプじゃない。
 女性の非力さには勝るが、片腕一本で女性一人を支えるのは気構えなしでは難しい。

 ああ、
 ほら、痺れが。

 腕が笑ってる。


 でも、放すわけにはいかない。


「……ご、ごめんなさい……」

 ウィニエルは転んだことに驚いたのか、僕に怒鳴られて驚いたのか、胸の前で腕をクロスさせて身体を硬直させ、目を丸くしながら呟いた。

「……はぁ……か、カップなら僕が取ってやる」

 僕は床に膝を着け、息を大きく吐いてから彼女に告げたが、僕自身も咄嗟のことに驚いていたようで、その声は上擦っていた。

「……ロクス……」

 僕の様子にウィニエルは申し訳なさそうに微笑み、クロスした手を放して片手の甲で僕の額に触れる。
 額に触れた彼女の手が離れると、その手の甲から彼女の頬に透明な雫が飛び、付着した。

 どうやら、僕は汗を掻いていたようだ。

「……ウィニエル……」
「……ありがとうございます、ロクス。あなたは優しい人ですね」

 彼女は自らも掻いた額の汗を僕に触れた同じ手の甲で拭いながら、僕を見上げて優しく微笑んだ。
 こんな笑顔を見せられては怒る気が失せてしまう。

 彼女の頬に僕の汗が触れている。
 彼女の手の甲で、僕の汗と彼女の汗が交ざる。

 痺れで笑った腕から彼女の温もりが伝わって来る。
 多少汗ばんだ項から彼女の香りが香る。


 それはごく僅かで、濃密な接触。


 ウィニエルは動こうとしなかった。
 長い時間この体勢でいることは不可能なのはわかってるが、彼女を放したくない。
 その態度は僕にそう思わせるよう促している。

 僕が君を想っているから?
 一人が淋しくなったから誰でもいいと?

 一時淋しさを埋められたらいいのか。
 だから、僕を誘うのか。


 君の態度は僕を誘惑しているとしか、思えない。


 そう思ったら無性に腹が立って来た。
 今は人間とは言えど、昔は天使だった。その天使が誘惑するとはな。
 厭きれて笑ってしまう。

 それに引っ掛かりそうになった僕も僕だ。


「くくくっ……君は、僕を馬鹿にしているのか?」

 僕は自分が情けなくなって首を横に振った。

「え……?」

 頭する間、ウィニエルはわけがわからないという顔で、僕を見上げる。

「……僕が君の望む通りに動くと思うのか?」
「? 何のことですか?」

 僕の静かな怒りに、彼女は知らない振りをして首を傾げた。

「僕は、君の思い通りにはならない。君が僕の思い通りになればいいんだ」
「え?」

 僕が告げた後、ウィニエルは尚も不愉快な受け答えをするから、僕は彼女の片手を掴んで無理やり唇を押し付けてやった。

「んむっ!?」

 彼女が目を見開く。

 だって、どうしようもなかったんだ。
 この場合、僕はどうしたらいい?

 耳を掩いて鈴を盗むしかないだろう?


「んんっ……!! んーっ!!」


 彼女の拳が僕の胸に何度も当たる。
 唇も僕から逃げるように放そうとするが、僕は構わず小さな唇の壁を自らの舌で抉じ開け、彼女の口腔内にそれを這わせた。

「うぅっ……やっ! やめっ……てっ!!」

 彼女の拒絶の声と一緒に僕の耳に乾いた破裂音が木霊した。
 頬が次第に熱くなる。

 僕は彼女に頬を引っ叩かれたようだ。


 ――それで、目が覚めた。

to be continued…

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