「ロクス! 放して下さい。私自分で立てますから!」 ウィニエルが頬を膨らませながら、瞳に涙を湛えて僕から離れる。 そして、動き辛そうに両手を床、流しと這わせて、お腹を支えながら立ち上がった。 その片手首に僕の掴んだ赤い指痕が残っている。 「…………っ」 彼女は黙ったまま僕が支え、掴んだ肩にそっと触れると眉を強張らせた。 それを見過ごさなかった僕は、 「……肩を掴み過ぎたか?」 無視されるのを承知で彼女に訊ねる。 「別に……ただ、ずっと掴まれていたから少し痛いだけで」 意外にも彼女は僕の言葉に直ぐ答えた。 ずっと掴まれていた? まさか、それで動けなかった…… とか? だとしたら僕は。 「…………すまない」 僕は何てことをしたんだろう。 好きな女性に何てことをしたんだ。 大体、誘惑なんて器用なことが出来る女じゃないことは僕が良くわかってるはずだろう? でも。 「いえ……ロクスはこの子の恩人ですから」 ウィニエルは少し哀しそうに頭を振って、お腹を擦った後それに向かって安堵したように微笑む。 その微笑みが子供への愛なのか、あいつへの愛なのかわからなかったが、僕への信頼度が下がったのはこの態度でよくわかった。 でも。 肩を掴んでいたことは謝ったけれど、さっきのキスを謝ったりはしない。 謝ってしまえば、さっきのは過ちだと認めてしまうことになる。 突発的だったとはいえ、あれは過ちなんかじゃない。 けれど、彼女に痛みを伴わせるのは本意じゃない。 「診せてくれないか?」 「え?」 僕は彼女の手首と肩が気になって、その場に座り込んだまま、立ち上がった彼女の方へ手を伸ばし、治療を申し出た。 「治してやるから、肩診せてみろ」 「…………」 僕の言葉に彼女は警戒心剥き出しの、訝しげな顔でこちらを見下ろしていた。 「な、何だよ、何もしないって!」 「……本当ですか? あなたは前科がありますからね」 ウィニエルの視線が痛い。 「う……そんな昔のこと、よく覚えてるな……」 僕は気まずくて口を濁した。 以前、ウィニエルに謝るからと嘘を吐いて彼女を押し倒したことがある。 まさか、まだ根に持っては……いないよな? 「ええ、全部覚えていますよ。忘れたりなんかするはずないじゃないですか」 「え……?」 「ロクスは私の大切な人だったのだから」 ウィニエルは全てを許す天使のように優しく微笑んだ。 「…………」 俺は黙り込んでしまった。 ……ウィニエルは笑顔で言ってくれたのだが。 その台詞は彼女を好きな僕にとっては辛い言葉だった。 大切な人? 誤解を招くような言い方をするな。 期待してしまうだろう? 僕を受け入れるつもりも無いくせに。 「……な、何ですか?」 気が付いたら僕は立ち上がって彼女と向き合っていた。彼女はほんの少しだけ、後ずさる。 「……なぁ、ウィニエル、僕が君を好きだと言ったらどうする?」 「ど、どうって……」 僕は彼女が痛がっていた肩に触れる。 一瞬、彼女は身を強張らせたが、直ぐにそれを解いた。 服越しでも充分だ。僕の癒しの手が彼女の肩の痛みを取り除いていくのがわかった。 「……僕と一緒にならないかってこと」 肩の痛みが消えた頃、癒しの手は今度、手首に触れる。 どちらも癒しの手が傷つけたのに、癒しの手で癒すとは、何だか妙な感じだ。 「…………」 ウィニエルは何も言わなかった。 僕が治療を終えて、彼女の両手をそっと握る。 「なぁ、ウィニエル?」 僕は彼女を覗き込むようにして再び訊ねた。 「…………」 ウィニエルはやっぱり何も言わない。 ただ、僕の方を見つめている。 刹那、 『ピー!!』 と部屋に笛のような音が響いた。その音の方へ目をやると、火に掛けられた薬缶の湯気が上へ伸びて、天井にぶつかるとそれに沿って放射状に広がる。 「あ、いけない。お湯沸かしてたんだった」 ウィニエルは僕の手を振り払って僕から逃げるように背を向け、火を止めに行く。火掻で薪の火を掻き出し、手馴れた手付きで消火した。 直ぐに棚からコーヒーポットとフィルター、挽かれたコーヒー豆を取り出し、手際よくお湯を注いでいくと、淹れたてのコーヒーの香りが部屋に満ちる。 「……一緒にって……何言ってるんですか」 ウィニエルは僕に背を向けたまま、作業を続けながら告げる。 「……ロクスは教皇なのでしょう? 私なんかが一緒になったらあなたに悪評が付いてしまう。そんなことさせられません」 「……悪評? 何で」 ウィニエルの言葉に僕は訊き返していた。 借金や酒は今に始まったことじゃない。 もう今更これ以上の悪評など付くはずもないじゃないか。 そう思ったが、ウィニエルは僕が避けていた答えをわかっていた。 「お腹の子はあなたの子ではありません。この子はあなたにとってプラスにはならないでしょう。教皇庁にとっても邪魔な存在になります」 ウィニエルの言うことは正しかったのだが、 「そんなの生まれてみなきゃわかんないだろっ!」 僕は反論していた。 仮にウィニエルと未来を歩むとしても、僕をやっかむ大司教や枢機卿達にとって、ウィニエルの腹の子は僕を教皇の座から降ろす恰好の的となる。 同じ理由で、僕を支持する副教皇達にとってもウィニエルが産む子は厄介者だ。 ウィニエルが手に入るなら、教皇の座なんて要らない。 ――とは、もう言えない。 今の僕は教皇の座と、ある程度の折り合いを付けられる様になって来たのだから。 昔とは違うんだ。 僕も、ウィニエルも。 「……ロクスを教皇の座から退けさせるわけには参りません。それに、私はこの子を愛しています。この子が哀しむ様なことは……」 言い終えると同時彼女が反転し、コーヒーがテーブルへと運ばれた。 「ふん……振られたということか」 僕は椅子に勢いよく腰掛け、運ばれたコーヒーを砂糖も入れずにズズズと音を立てて啜った。 コーヒーの香りは良かったが、色は薄めながらもほろ苦かった。 「……ごめんなさい。でも……嬉しかったです」 ウィニエルも向かいに座って、静かにコーヒーを口に運ぶ。 なんだって嬉しかったなんて言うのか、この女は。 嬉しかったってことは僕を嫌いじゃないということだろう? それに、さっきの物言いじゃ僕の立場を護るためと、子供の将来を護るための理由付けじゃないか。 肝心の自分の気持ちはどうなんだ。 嫌いじゃないんだろう? そう考えたら、口を突いて出ていた。 「……僕は諦めないからな」 「……お砂糖入れますか?」 僕が眉を顰めながら静かに告げると、彼女はシュガーポットを差し出した。 「聞いてない振りをするな」 「……ミルクもありますよ」 完全に僕の言葉を無視して彼女はミルクポットを差し出す。 「ウィニエル」 ミルクポットを差し出した手、右手の薬指に銀の指輪が嵌っている。 前からこんな指輪していただろうか。 まぁいい、ただのアクセサリーだ。 僕はその手の上にそっと自分の手を重ねた。 「……今はこの子のことだけで精一杯なんです。ごめんなさい……」 ウィニエルが深々と頭を下げ、僕の手から静かに逃げていく。 ミルクポットだけが僕の手に残る。 「……わかった。じゃあ、また今度にする」 僕はミルクポットにやった手を引っ込め、テーブルの上で拳を作った。 「……ロクス……」 ウィニエルが顔を上げて困った顔で僕を見つめる。 「君は卑怯だ。昔だって、僕を本気にさせといて逃げ出したんだぞ? 今もそうだ。嬉しかったなんて体の良い言葉で僕を遠ざけようとしている。僕はそんなの許さないからな」 僕は一気に苦いコーヒーを飲み干し、カップをテーブルに押し付け、彼女を覗き見る。 「別にそういうわけでは……」 ウィニエルはさっきと変わらぬ表情で眉尻を下げ、視線だけ僕から逸らした。 それから僕と目を合わせようとはしなかった。 ――二人の間に再び静かな沈黙の時間が訪れた。
to be continued…