「では、少しお願いします」 私はドアノブに再び手を掛けた。 ドアを開けて、外に出ると木漏れ日が眩しく、目と鼻の先に白いシーツやフィンのオムツが湖から吹くやや冷たい風によって棚引いている。 「……んー……いいお天気ー!」 私は木々の間から漏れる温かな陽を仰ぎながら、洗濯ロープに掛けられた風に揺れる白いシーツに手を添え、洗濯挟みに手を掛けた。 「……すっかり母親になったな」 「……え?」 不意に声がして、私は洗濯挟みを手に、シーツに添えた手を離してしまう。 「あっ」 途端、シーツは支えを失い、湖を渡って来る風によって宙に舞った。 宙に舞ったシーツは地に落ちるかと思ったけれど、先程の声の主に引っ掛かり、その人物を頭から覆うようにして留まった。 「……ふむ……悪くないな」 シーツに覆われた人物から再び声が聞こえる。 「……ミカエル様……」 私は驚いて無意識の内に息を呑み、洗濯挟みを地面へと落としてしまった。 「……ほら、落ちたぞ」 ミカエル様がシーツを取り払いながら、私が落とした洗濯挟みを拾って、私の手の平に載せた。 「……あの子は……」 私の手に載せられた洗濯挟みは手の平に留まらず、また地面に落ちてしまう。 「ああ、ローザが見てるから安心しろ」 ミカエル様が目元を和らげ、口角を上げた。 家の入口は私の後ろ側なのに、ミカエル様は反対側から現れた。 いつの間に? ついさっき家の中に入っていったばかりなのに、もう出てきたの? 天使は神出鬼没だって、人間になって天使に会うと改めてそう思う。 勇者達が突然現れる私に驚いていたわけが今更に何となくわかった気がする。 心臓に悪いわ……。 私は驚いて二度大きく瞬いたけれど、その後は瞬きもせずに目を丸くしていた。 「……ウィニエル。頑張ってるようだな、俺は嬉しいぞ」 そう告げて、私の驚きを余所にミカエル様は私を抱きすくめる。 「……ミカエル様……」 ミカエル様の腕に抱かれ、私は動けず直立不動のまま。 この時、私はミカエル様の胸から聞こえてくる心音に、安心感を覚えていた。 だって、ミカエル様は私の親だ。 時々アイリーンやルディやロクスも訪ねて来てはくれるけれど、一人で子供を育てると言った手前、疲れや弱音は吐けない。 ルディやロクスに頼ることも彼等の気持ちを考えたら、一時の感情に流されたからというわけにはいかない。まして、アイリーンに弱音を吐いたら彼を頼ればいいと言われるに決まってる。 頑固かもしれないけれど、まだもう少し頑張っていたい。 それでも、 彼がそっと抱きしめてくれたらそれだけで私は頑張れる……そう思う時がある。 それでも、 今は彼に頼れないから。 淋しくても、 苦しくても。 今頼れるのは、私の親だけ。 ミカエル様だけ。 そう思ったら、とても安心出来た。 「ああそうだ、ウィニエル。この花をお前にやろう」 「え? あ、ありがとうございます……」 ミカエル様はどこからか花束を取り出し、私の前に差し出す。 私の両手でやっと支えられる程の大きなその花束、それは天界で育てていた白の薔薇ではなく、赤。 深紅の色をしていた。 花言葉は……愛情? 誕生日でもないのに、ミカエル様がどうして私に花束をくれたのかはわからないけれど、それを親の愛情として、私はありがたく受け取った。 「フィンは可愛いな」 「……はい、とても」 ミカエル様の問いに、私は薔薇の花の甘い香りを嗅ぎながら、返事をする。 この時、ミカエル様がフィンの名前を知っていたことに私は何の疑問も抱かなかった。 私はフィンの名を呼んでいなかったのに。 天使だからなのだろうと、そう思っていた。 きっとそうなんだと、今でもそう思っている。 ……そう、思いたいだけなのかも。 相手はあの、ミカエル様だから。 油断は出来ない。 ◇ その再会の日から、ミカエル様はアイリーン達が来ない日を見計らって訪ねて来られるようになった。 そして、私が一人で困っていると時折助けて下さる。 本当に、一人じゃどうしようもない時がある。 どんなに頑張っても、 どんなに意地を張っても、 一人で子供を育てることに限界はあるんだと、ミカエル様に助けられて、気付かされた。 ――ある日、フィンが熱を出したのだ。 人間の私はフィンが熱を出しても体温を中々下げてあげられなかった。 街まで走って病院へ連れて行こうとしても、その日は生憎の大雨で、かえってフィンの容体を悪化させてしまうから出来ず、お医者様を呼びに行こうにもやはり雨の影響で、しかも真夜中だったから街まで私自身が無事に辿り着けるかもわからない。 私は熱に苦しむフィンを抱いて取り乱し、泣き崩れていた。 そんな時ミカエル様が突如現れて、 「お前が泣いて何になる!」 一喝して無理を承知でフィンを助けてくれた。 ミカエル様が居なかったら、フィンは死んでいたかもしれない。 フィンの熱が下がった後、ミカエル様は「お前は頑張ってる」と、私を安心させるように頭を撫でてくれ、その手が心地よくて、私はそのままフィンの眠るベッドの傍らで泣き疲れたのか、眠ってしまった。 その出来事以降、私のミカエル様の見方が少し変わった。 ◇ ミカエル様は人間の姿になってみたいと言うから、一緒に街へ出掛けるようにもなった。 買い物にも付き合って下さるから、荷物持ちなんかも買って出て下さる。 私はそれに申し訳なさを感じながらも、つい、甘えて頼んでしまう。 ミカエル様なら、何となく甘えられる。 そうして、今に至るわけだけれど……。 街に着けば、人の波。ここはいつ来ても行き交う人々で溢れ返っている。 雑踏の中に私達は紛れていく。 フィンの手を離さないように、はぐれないように。 三人で並んで歩いていると、どう見えるのだろう。 親子のように見えるかしら? 私がミカエル様を親だと思っている以上、血の繋がりは無くとも、私達三人が親類だということに変わりはない。 そう思えばフィンが懐くのも納得がいくのかも。 ただ、ミカエル様の姿が若々しいから、祖父と孫だなんて思われないだろう。 ミカエル様とフィンは親子だと。 殆どの人はそう思うんだろうな。 ミカエル様の髪とフィンの髪の色が似ているから。 でも、瞳の色が違う。 あの子の目は琥珀色。 その色はあの人の瞳の色。 フィンが大きくなる度に、苦しくなる。 あの人の面影がフィンに重なるから。 フィンが笑う度、怒る度、拗ねる度。 寝顔も、おどけた顔も、全部。 あの人にそっくり。 もう会えないのに、フィンを見る度彼に会いたくて堪らなくなる。 彼を忘れるどころか日に日に想いが膨らんで、まだ彼を欲しているのだと私自身に見せ付けているようで、苦しい。 感情を抑える為にミカエル様とこうして出掛けているけれど、何か満たされないものがある。 ルディやロクス、ミカエル様は好きだけれど、愛してはいない。 私を満たしてくれるのは彼だけ。 私は今でもフェインが大好きなのだ。 フェインに恋を、まだしている。 例え逢えなくても。 追っていていいでしょうか。 ねぇ、フェイン。 まだしばらくは追っていていい? あなたの面影を――。
to be continued…