◇ 「それじゃ、また」 「……はい」 俺達は丘でしばらく過ごした後、まだ明るい内に。 空の色が夕焼け色に変わる前に別れようとしていた。 「本当に送らなくていいのか?」 街の入口で俺達は、束の間の逢瀬を名残惜しむように向かい合う。 「ええ……」 彼女は俺を愛おしそうに見上げて、こちらに手を伸ばした。 「ウィニエル……もっと一緒に居たい」 白い手が俺の頬に触れる前に、差し伸べられた手を取って俺は彼女を抱きすくめる。 密着すると彼女の柔らかい身体から温もりが伝わって来る。 それは天使だった頃よりも温かくて、俺はその熱に浮かされてしまいそうだった。 「……私も……、でも……ごめんなさい……今日は駄目なんです……」 ウィニエルが俺から離れようとしないままに、そんなことを告げるから、 「……この間もそうだった」 俺はつい、悪戯のように拗ねてみる。 「………ごめんなさい……本当に、忙しくて……」 彼女は僅かに俺から離れようとした。 「……帰さないと言ったら?」 ようやく彼女が俺から離れようとしたのを見計らうように、俺は腕に力を込めて、逃げられないようにした。 「…………フェイン……困らせないで下さい」 ウィニエルは無理に引き剥がそうとはせず、逆に、身を寄せて更に身体を密着させる。 「……一緒に居たい」 その様子に俺が彼女の髪に顔を埋めると、 「……次は一緒に……私、あなたの部屋に行きますから……」 瞬刻、ウィニエルの言葉に血が遡った気がして、俺は彼女の肩を掴んで、向かい合うように身体を剥がした。向かい合って彼女の様子を見てみると、俺と視線を合わせはしないが、頬を赤く染め黙りこくっているのがわかった。その赤は耳までも侵食している。 つまり、俺は誘われた……のか? 「……約束するか?」 「……はい……約束です」 俺が伺うと彼女は口元に手を当てて、恥ずかしそうに視線を合わせた。 やっぱり誘われた……、ようだ。 「あ、ああ……君も忙しいんだったな」 誘われたのだとわかった途端、俺は単純なのか、物分りのいい子供のように彼女を解放していた。 「……フェイン、大好きです。また……会って下さいね」 ウィニエルは背伸びをして、俺の耳元に近づきそう告げると、そのまま耳に口付けをした。 「……っ……」 彼女の唇の柔らかい感触と熱い息が耳に掛かって、擽ったさに驚いた俺は、その耳を手で覆う。 今、つい声が漏れそうになった。 どういうつもりでこんなことをするんだ? そう思って彼女を見たが、 「では、また。フェインも気を付けて帰って下さいね」 彼女は何事も無かったように頭を下げ、俺から離れると、背を向けて家へと帰って行ってしまった。 「……まだまだわからないことだらけだな……」 ふっ、と笑って、俺は小さくなる彼女の背に向けてつい呟く。 彼女は本当に捉えようがない。 どこまでも深くて、俺を飽きさせない。 彼女の全てを早く知りたいのに、こんな風では。 彼女の全てを知るなど、到底無理なような気がしてきた。 「……ウィニエル……」 彼女の後姿を見ると、背中が先程よりも小さく見える。 それから俺は彼女の姿が見えなくなるまで見送ってから宿へと戻った。 今日のうちに俺はギルドへ向かう為、この街を出なければならない。 次に会った時は、一緒に。 彼女との約束は、一人、遠く離れた地にあるギルドへ向けて旅をする俺に活力を与えた。 ◇ ……それからまた一ヶ月半が過ぎ―――。 会う時間は短いままだったが、俺達はすっかり元通りの関係になり……、 いや……、 互いの気持ちが言い合える分、実際は以前よりも濃密な付き合いになった気がしている。 ただ変な話だが、情事の際、天使でなくなった彼女に子供が出来ては困るからと、中に出さないようにしていた。 彼女もそれを望んでか、中に出すことを拒んでいる。 たまに止められなくなるときもあるが、その時でも彼女は俺に出さないでくれと懇願する。 ……以前のようにはいかないな。 彼女が天使だったら、気にも留めずに済んだものを。 天使と人間とじゃ、子などできやしないだろう? だが、人間同士なら出来てしまう。 俺は出来ても別に構わないのだが。 ……彼女が大切な人となってしまった分だけ、歯痒さがある。 もっと彼女を壊せたらいいのに、と彼女を抱く度衝動に駆られる。 俺達の関係の始まりが異常だっただけに、あの頃のことが忘れられないんだ。 それでも、彼女を大事にしたいという想いが、辛うじて俺の荒々しい欲望を留めている。 「……ん?」 俺の視線の先に、銀の髪の、以前母親を捜していたあの男児が居る。 枝を使い、中腰で地面に向かって、何か落書きをしているようだ。 ここは、彼女の家の近く。湖の畔だった。 今日、ウィニエルと会う約束をしているのだが、予定より早くリャノに着いたから、俺は彼女を迎えに来ていた。 こんな場所で小さな子供が一人、何をしているんだろうか。 「……何をしている? 一人か?」 俺は無意識に近づき、声を掛けていた。 「……ん? ……おじさん、誰?」 幼児は落書きをしていた手を休め、近づいた俺を見上げる。 「おじ……、……まぁ、そうか。俺はフェイン。君は?」 俺は幼児の目線に会わせる様に身を屈めて告げた。 その子をよく見てみれば、見事な銀色の髪だ。注視すると金も混ざっているようで、それに木漏れ日が当たると銀髪だけよりも多く光を反射して輝いているのがわかる。 瞳の色は琥珀色か……。 どこかで見たことがある気がするのは気の所為だろうか? 「……教えないよ。知らない人に名前教えちゃ駄目だってママに言われてるから教えない」 幼児は頭を振って、最後まで言い終えると笑った。 その物言いに俺は思い当たることがある。 この子に以前にも会った事がなかっただろうか。 あれは確か……、彼女と再会する少し前だ。 俺が汚したガラスを魔法のように綺麗に拭き取ってみせた。 そして気鬱した俺に、汚しても何度でも綺麗になると笑顔で教えてくれた。 無邪気な子供のたった一言がどれ程救いになったかしれない。 それにしてもこの笑顔、 誰かに似ている気が……。 「……ん? そうか……、その方がいい。君のお母さんは賢い人なんだな」 男児が首を傾げてこちらを見ていることに気が付いて、俺は慌てて微笑み、男児の頭を撫でてやる。 「うん! ママはとっても賢い人なんだよ! それに、綺麗で可愛くて、ぼく、ママが大好きなんだ!」 男児は俺に頭を撫でられると嬉しかったのか、満面の笑みを俺に向けた。 その子の柔らかい髪の感触に俺はつい考えてしまう。 俺にも、こんな子供が居たら……と。 何度思ったことか。 「……ところで、また一人なのか? 大好きなママは?」 「一人じゃないよ、ミッキーが居るもん。それに、ママはお買い物に行くんだって……」 俺が訊ねると男の子ははっきりと答えたが、言い終えた後酷く淋しそうな顔をした。 「……どうした?」 俺もまた、つい、訊ねてしまう。 何故かこの子が気になって仕方なかった。 「……ママね、最近お家に居ないんだ」 「何で?」 「わかんない。どうしても抜けられない用事があるからって、ぼくが止めても行っちゃうんだ。ミッキーが言うにはママは忙しいんだって」 男児は口を尖らせながら不満気に語る。 「……そうか、それは可哀想だな……それでパパといつも一緒なのか」 俺は不憫に思い、眉尻を下げながら柔らかな髪を撫で、男児を見つめた。 男児の母親は何らかの理由で家をよく空けているらしい。 記憶が確かなら、初めて会ったあの時、一緒に居た男を血の繋がらない親子だと、俺は認識していたはずだ。そして、ミッキーというのがこの間この子を連れに来た男、新しい父親なのだろう。 それなら、母親と父親の役割が逆なのかもしれない。母親が外で働き、その間父親がこの子を見ている。家庭の事情などさまざまだからそういう夫婦もいるだろうが、こんなに母親を慕っている子を家に置いていくのは少し可哀想な気がする。 そう思っていたら、 「ミッキーはパパじゃないよ。ぼくのパパは居ないんだ」 男児は無表情で淡々と言ってのけた。 そして、 「ぼくのパパはぼく達を捨てたんだ。でも、ぼくはママが居るから淋しくなんかないよ」 そう言い終えると少し目を伏せて淋しげに笑う。 その表情は俺に誰かを想わせた。 誰だろうか。 こうして淋しげに微笑む人を俺は知っている気がする。 不意に、 「……あ、ミッキーが来た。ぼくもう行かないと」 「ん?」
to be continued…