「ママがこれから出掛けるから、ぼくもミッキーと出掛けなきゃいけないんだ」 男児は誰も居ない方向に視線を向け、手に持っていた枝を湖に向かって放り投げた。 俺はそれを目で追う。 静かな湖に枝が着水すると、波紋が広がる。湖水は透き通り、砂と丸い砂利だけの底まではっきりと見えた。俺の髪を時々撫でる湖面を戦ぐ空気は、水に温度を奪われ冷たいが、清浄で澄んでいる。 余りに穏やか過ぎて、ここが決戦の地だったなど、今となってはにわかに信じがたい話だ。 「じゃあぼく行くね!」と、男児は走り出した。 「ああ」 俺が返事をすると、男児は突然足を止めて振り返る。 「あっ、いっけない。ごみは持って帰らなきゃって言われてるんだった!」 慌てたように先程投げた枝を拾いに戻ってくる。 同時、 『おーい、時間だぞー!』 男児の向かっていた先に木の影からあの銀の髪の男が現れ、手を振ってこちらに近づいて来ていた。 さっきまでそこに人の姿などなかったはずなのだが。 それにその男、よく見てみればどこかで見たことがある気がする。 彼女と再会する前、男児と一緒に居たが、そのもっと前に一度だけ。 ……一体どこで? 「……一人で出歩くなと言ってるだろう?」 「ミッキーが来るのが遅いんだよ!」 銀髪の男が俺のすぐ近くまでやって来て、男児の手を引く。 「淋しかったか?」 「ううん、全然」 男の問いに、男児は笑顔で頭を振っていた。 「何だよそのあっさりした言い方。冷たいなぁ」と、男は男児を背に負ぶる。 血の繋がりなどなくても、この男が男児を大事に想っているのがわかった。男児も口ではああ言ったが、負ぶさると背に頬を摺り寄せ、よく懐いているように思う。丁度いい関係なのだろう。 「……お守させて悪かったな。助かった」 男が俺を見て手を差し出した。「いや……俺は何も」と俺はその手を握る。 「…………?」 ほんの一瞬だったが握られた手に力が込められた気がして、俺は黙り込んでしまった。 その直ぐ後で手は解放されるが「……お前は幸せな奴だよ、全く……」と意味不明なことを言われる。 「……は?」 「……いや何、お前が羨ましいだけだ」 「は?」 「……俺もそう出来れば良かったんだがなぁ……」 男の言動に俺は訝しい顔で様子を見ていたが、男は不敵に笑って答えようとはせず、わけのわからない事ばかりを置いて、この場から去ろうとしていた。 「待ってミッキー、枝拾わなきゃ」 「枝?」 男児の声に男が歩みを止める。 「うん、さっき使ってた枝。湖に投げちゃった」 男児は枝の落ちた湖面を指差した。 「枝なんか拾わなくてもいい。早く出掛ける準備しないと、ママが出掛けられないぞ?」 「でも、ごみを湖に捨てちゃいけないってママが」 「だが、時間がなぁ……」 男が俺に視線を投げ掛ける。 「……ああ、枝か、俺が拾っておこう。行っていいぞ」 男の視線に気付いた俺は相槌を打つように頷いて告げた。 「悪いな」 そう言って男は俺に背を向けて歩き出した。「フェイン、また会おうね!」と背に負ぶさっている男児が振り向いて、満面の笑みを浮かべて俺に手を振る。 「ああ、またな」 俺は無意識の内に男児の笑顔に釣られて微笑みながら同じように手を振っていた。 「まさかあいつと会うと思わなかったなぁ、……ママ驚くだろうな」 「何ミッキー笑ってんの?」 「さぁ~?」 俺にははっきりと聞こえなかったが、二人の会話が僅かに聞こえ、その声は直ぐに遠ざかっていった。 男児の屈託のない笑顔。 その笑顔をやはり俺はどこかで見ている。 誰かに似ている気がする。 ……まぁ、いい。 その内思い出せるだろう。 そう自分に言い聞かせて、 「……枝、だったな」 俺は枝を探しに湖面へと近づいた。 湖面に俺の顔が映って、ふと何かに気付く。 「…………?」 何だろう、この違和感。 俺の顔……誰かに似ている気がしないか? 「……はは……まさかな」 俺は幸いにも浅い場所、砂と砂利だけの湖の底に、男児が先程投げた枝を見つけ、躊躇することなくそこまで足を浸け進み、手を湖水に沈めた。深さは俺の膝程。 「……俺か?」 俺は枝を拾って再び湖面を見つめる。 湖に映った俺の顔は自らが作った波紋に歪んでいた。 「…………」 ふと、俺は男と男児が去った方向へ目をやる。 その先には彼女の家がある。 そこはこれから俺が向かう場所だ。 そして、その方向には彼女の家以外に民家なんかない。 男児が落書きしていた地面も丁度目に入った。 土の上にわかり辛いが、文字が書かれている。 さっきは逆からだったから気に止めなかったが、その文字は人の名前だった。 「……俺に似ているわけがないだろう?」 湖に透明な雫が零れ落ち、小さな波紋を次々に形作り、その波紋が湖面に映った俺の顔をはっきりと正視させないように歪ませる。 俺の目からそれは零れ落ちていて、次から次へ溢れ出ては水面を揺らした。 頬を伝うことを止めない涙に俺は、自分が情けなくてどうしようもなかった。 初めて会ったあの時、気付くべきだった。 今頃やっと気付くなんてどうかしてる。 これじゃあセレニスにだって厭きられてしまう。 ◇ それから数分も経たない内に……、 「はぁっ……はぁっ……」 と、こちらに向かって誰かが走ってくる音が耳に入って来た。 そして畔でそれは止まり、 「………フェイン?」 湖面を見ていた俺に、背後から彼女の声が聞こえた。 「どうしたんですか? 今日は街で約束してたはずなの……に……」 「…………」 俺は黙ったまま彼女の方を一度見て、また湖面を見下ろす。 「……フェイン……」 彼女の声のトーンが下がり、彼女が湖へ入って来たのか、水が跳ねる音がした。 「……何かあったんですか?」 彼女は傍に寄って俺の頬を両手で包み、心配そうに見上げる。 こちらに来る際手に水が付いたのか、頬にそれが触れて冷たい。 「……子供と会った」 「え?」 「……ほら、一月半程前に母親を捜していた子供だ。憶えていないか?」 俺は彼女を見つめていた。 だが、まだ涙は止まらずに溢れ続け、彼女の綺麗な顔が歪んでよく見えない。 「えっ!? ……え、ええ……、フェイン……泣かないで下さい……」 彼女は何故か気まずそうに返事をして、話題を変えるように俺の首に腕を回し、自分の方へと寄せた。 「……ウィニエル……」 「……あなたが泣いたら私も哀しくなってしまいます……」 彼女が俺を引き寄せたというのに、俺に縋るように身体を密着させてくる。首に回されたひんやりとした彼女の手が心地よかった。 そして、不思議なことに彼女の言葉に応えるように涙も止まる。 「……君が俺から離れた本当の理由がわかった……」 「……っ……」 俺が言葉を発すると、彼女は黙り込んでしまう。 「……あの子は、君の子だろう?」 彼女は答えなかった。 あの男児は俺に似ている。 似ているなんてもんじゃない、瓜二つだ。 それに、地面に書いてあった名前。 “ママウィニエル” 「……俺と、君の」 俺の言葉に彼女は黙ったままだったが、先程よりも腕に力を込めて俺を抱きしめる。 まるで、俺の次の言葉に怯えるように。 「あの子はいくつだ……?」 あの子の年齢が三つくらいなら、天界に彼女が一度還った分、多少の誤差はあるが、時期が合う。 「…………、三歳……です」 彼女は躊躇しているのか間を取ってから、観念したように掠れた声で答えた。 「……やっぱり……」 彼女の言葉に俺は眉を顰めた。 「……何故一人で抱え込む? ……俺はそんなに頼りないか?」 「…………、いいえ、そんなことはありません……」 俺が告げると彼女は頭を振って、互いに向かい合うように身体を離した。
to be continued…