「ウィニエル、すまなかった。本当に……すまない……」 俺は彼女の肩に手を置いて頭を垂れる。 確かに、あの頃俺達は何度も関係した。 だが、天使の彼女の身に俺の子が宿るなど、誰が想像できる? 別の女を愛している男の魂を身に宿し、天使であるが故に堕胎することも出来ない。 かと言って、あのまま地上に残り、子を産むのも苦痛だったろう。 ――だから天界に還った。 だが天界になんらかの理由で……、恐らくは俺の子だ。 その所為で居られなくなって、地上に降りた。 そして人間となり、母となった。 「……謝らないで下さい。私の方こそ勝手なことをして申し訳ありません……」 彼女が俺と同じように頭を深く垂らすと、透明な雫が零れ落ち湖面に再び波紋が放射状に広がってゆく。 「……一人で、辛かっただろう? よく……頑張ったな……」 俺は顔を上げて、未だ俯く彼女の肩を抱き寄せる。 「……いいえっ、辛くなどっ……」 ウィニエルは俺の胸元に縋りつくように涙を溢した。 今なら全てわかる。 彼女の多忙の理由。 俺と再会し、小さな子供が居るんだ、忙しいからと時間が無いのも理解出来る。 一ヶ月半前あの子がママ、ママと叫んでいた理由。 母親が彼女だったから。 あの子が言っていた母親がどうしても抜けられない用事。 それは俺との逢瀬だ。 彼女が俺に子供のことを黙っていた訳――。 ……多分一月半前、俺が子供は必要ないと告げたから、だ。 それは彼女がこれ以上思い詰めないようにと思って言った言葉だったが、既に子供が存在していた以上、彼女にとっては酷く衝撃的だっただろう。傷ついたに違いない。 現にあの後元気がなかった。 そして、あの銀髪の男。 普段の俺なら嫉妬の一つでも妬く所だが、あれが誰かもわかった。 あれは天使だ。 堕天使と天竜を倒した時に現れた彼女の上司。親のようなものだと、以前彼女から訊いたことがある。 何故天使がまだ地上に居るのかわからないが、自分の娘と孫に会いに来たと思えば説明がつく。 同じように、あの子が懐いている理由もわかる。 「誰かに似ていると思ったが、君だったんだな……」 俺は真実を知った喜びに微笑んでいた。 「……え? フェインに似ていると思うんですけど……」 彼女も同じように涙を溢れさせながら、笑う。 それを見て俺は思う。 ああ、この笑顔。 あの子の微笑みはこの笑顔に似ていたんだ。 「いや……君にそっくりだ。名前は何て言うんだ?」 俺は彼女の頬を両手で包んで訊ねる。 「……フィン……、フィンといいます」 ウィニエルの瞳から涙は溢れて止まらないのに、彼女は微笑むから、俺はそれを親指で何度も拭った。 「そうか……フィンか……、……フィン……」 あの子の名前を知ることが出来た俺は名を紡ぐと、途端我が子への愛しさに胸が締め付けられる。 フィン。 元気で利発で物怖じせず、真っ直ぐに育っているいい子だ。 母親に愛され、母親を慕い、母親を護っている。 俺が彼女の傍に居られなかった間、ずっと護ってくれていた。 叶うことなどないと思っていた、俺が密かに望んでいた未来の希望。 ウィニエルは叶えてくれていたんだ。 「……ウィニエル」 「はい……?」 俺は彼女から手を下ろし、向き合った。 「……フィンを産んでくれて……ありがとう」 「え……」 俺の言葉に彼女が驚いたのか呆気に捕られたように目を見開いて、口元に手を添える。 「……どうした?」 俺が訊ねると、 「……そんなこと言ってもらえるなんて思いません……でしたっ……っ……うう……」 そう告げて顔を顰め、再び泣き出してしまった。 ひくひくと、小さな嗚咽が静かな湖に映える。 「……君は泣き虫だな……」 「なっ……泣かないつ……りだっ……たん……」 泣かないつもりだったんですけど。 そう言うつもりだったらしいが、上手く言えていない。 俺は無言で彼女を再び抱き寄せていた。 「……っく……ふぇいぃん……」 俺の胸元に彼女の泣き声の振動が伝わる。 「……気が済むまで泣けばいい」 俺は彼女の柔らかい髪を撫でてやった。 その後、一頻り泣き終えた彼女は「……フェインのことになると駄目みたいです」と俺を見上げ泣き腫らした目で微笑んだ。 「あの、フェイン……」 「ん? 何だ?」 充分に泣いた後で、彼女は俺を見上げて告げる。 「……今度、フィンに会って貰えますか?」 「ああ、もちろんだ」 「よかった……」 ウィニエルは安堵したように深く息をついた。 少し、その態度が気に掛かる。 「? 当たり前だろう? 自分の子じゃないか」 「だってフェイン、以前子供は要らないって言ってたから、子供嫌いなのかと」 ウィニエルは上目遣いに俺を窺うように覗いた。 「あれは君を想って!」 俺はつい声を荒げる。 俺がそう言ってもわかるはずもないのか、「え?」と彼女は首を傾げた。 俺は何を考えていたんだろう。 彼女が最初の男を忘れられない? セレニスに負い目を感じている? そうであっても、既成事実が先行していたんだ。 もう後戻りなど出来やしないじゃないか。 必要なのは受け入れる力、寛容さだ。 俺は男だから、女の寛容さなどわからない。 特に、ウィニエルは元天使だ。元天使の懐の深さなど計り知れないものなのだろう。 愛の言葉の一つも満足に言えないような無責任な男の、子を産もうなどという無謀な彼女の寛容さなど、俺にわかるはずもない。 だが、つべこべと今更理由付けしている場合じゃないことはわかる。 そして、フィンの存在が事実であり、それが好ましいということも。 「いや……何でもない。とにかく、俺は子供は好きだ」 「え?」 俺の言葉にウィニエルは口をぽかんと開けた。 「ん?」と俺は彼女を覗き込む。 すると、 「フェインっ!!」 「っ!?」 それは俺の名を呼ぶのと同時だった。 彼女が飛びつくように俺の腕を押し、そのあまりの勢いに俺の足元が掬われそのまま腰から湖の中へと入水し、尻餅を着いてしまった。 水が大量に跳ねる音と共に、湖面に大きな波紋が広がる。湖畔の森に居た鳥達も驚いて、数十羽空へと舞った。 「……冷たっ……」 彼女は俺を挟むように両脇の湖底に手を付いて、水が片目に入ったのかその目を閉じた。 「……ウィニ……エル?」 俺は湖に浸かり、呆気に取られた顔で自分の上にいる彼女を見上げる。 「ご、ごめんなさい……つい、嬉しくて……」 ウィニエルも自分の取った行動に驚いたのか、瞬きを数回しそう告げて、「ははは……」と誤魔化すように笑った。 彼女は時々思いも付かない行動を取る。そして、その自分の行動に自分で驚く。 普段子供っぽくないのに、そういう行動を見るとつい可愛いと思ってしまう。 それは天使の頃から変わらない。 俺は水に濡れ、屈託無く笑う彼女を見ていた。 「……ウィニエル……」 「……あ……今退きますね」 視線に気付いた彼女は俺の上から離れようと、手で湖底を押すが、 「う、わっ……」 彼女の手元が滑り、ぶっ、と水の中に顔を浸けるようにして俺の胸に顔を埋めた。 「……ウィニエル……何やって……」 「ご、ごめんなさい……」 彼女が水に濡れた顔を上げると、その水が跳ねて俺の顔に付着する。 そして、前髪までもが水に濡れてしまっていることがわかった。 「ふっ……」 不意に俺は噴き出していた。 顔を上げた彼女の表情が、恥ずかしいのか半ば泣きそうな顔だったから。 それから、 「うう……すみません……」と、ウィニエルは気まずそうに謝り続ける。 その姿が少し間抜けで可愛い。 「……ウィニエル」 俺は彼女の名を呼ぶ。 「……手が、滑って……」 彼女は何とか立ち上がろうとするが、手をついた底の砂が滑るのか上手く湖底を捉えることが出来ず、視線を下方にしてその場所を探していたが、砂が舞い上がるだけで中々場所が定まらない。 「ウィニエル」 一生懸命手をつく場所を探す彼女の名を、もう一度呼んでみる。 「い、今退きますから……、でも、手が滑っ……」 彼女はやはり湖底の砂を舞い上げてばかりで、俺の方には振り向かなかった。 「ウィニエル」 もう一度。 「……ちゃっ……て……、…………」 彼女はやっと湖底から俺へ視線をずらし、動きを止めた。 俺はずっと彼女を真っ直ぐに見ていた。 冷たい湖の水の感覚など構いもしないまま、彼女を求めるような目で、彼女を愛しむように。 「……フェイン……」 俺の視線に気付いた彼女は俺に寄り掛かり、そのまま体重を乗せてくる。 「ウィ、ニ……!?」 瞬刻、 ゴボッ、と、湖面が泡立ち、俺の手が湖底を滑り、身体が湖に沈んだのがわかった。 そして冷たい水の中、唇に僅かに温かく柔らかい感触。 条件反射で瞑った目を開けて見れば、彼女が俺に口付けしていることがわかる。 それに気付いた俺は彼女の身体を引いて、唇を抉じ開け中へと赤い舌を差し入れた。彼女は拒否することなく遠慮がちに俺の舌と絡ませ合うように、甘い舌で受け入れる。 時間にしたら、数十秒。 俺達は互いに、冷たい水の中で確かな温かい体温を感じていた。
to be continued…